2011年11月8日火曜日

突然の断水

 羅臼に一軒住宅をお借りしている。
 由緒ある商家だった方の住宅で、大変古い。
 一週間ほど水道を使わずにいた。先週、蛇口を開けたら水の出が悪くなっていた。
「出が悪い」などというものではない。一分間に200ミリリットルくらいしか出ない。
「ほとんど出ない」と言ってもよいだろう。

 屋内の配管も相当に古そうだったからすぐに修理業者に連絡した。

 今日、工事が始まったが念のためということで、まず外の配管を調べた。
 すると、外からの水の供給がすでの悪くなっていることが判った。
外の配管となるとそれは役場の管轄で、役場の水道課の人がすぐに来てくれた。
 来てくれた時点で暗くなって、今日の作業は終了時刻を迎えた。
 その時、役場の方から意外な申し出を受けた。
「お隣の家へ入っている水道管から分岐させて、臨時の配管を引きましょう」と。
 おおっ、なんという親切。
 しかし、即座に辞退した。一日や二日、たとえ一週間水道が出ないからといって、何が問題だろう?

 部屋の中にいて、寝ぼけ眼にボロパジャマで、蛇口をひねれば新鮮な水がどんどん出てくる状況は、贅沢の極みではないだろうか。日常の、そのような便利さに対して、僕たちは、感謝すべきであり、それが当たり前と思ってはいけないのだ。

 生活用水を手に入れるのに、近くの井戸まで水くみに行くというは江戸時代の普通の生活だった。それだって、遠い川まで行き、重い水を担いで帰ってくる時代の生活から見れば便利だったに違いない。

 僕が子供の頃、函館市に住んでいたが、地域によっては、町内に一カ所しかない共同の水道栓まで、家庭で使う水を汲みに行っていた。

 そう。
 水を手に入れるということは、大変な努力と労働を伴うことだったのだ。栓をひねるとドドドッと水が出てくる暮らしなんて、われわれが手に入れて100年にも満たないのではないだろうか。

まして、未来永劫水道が出ないわけではない。ほんの一週間か十日の間のことだ。臨時の配管をして今夜からまた水道を復活させる必要なんか、全然ない。

 便利であることは良いことかもしれないが、便利さに慣れてしまっては自分の中から逞しいココロ失われると思う。


 それにしてもナァ。
 今では、キャンプ場にまで水道がある。
 キャンプというものは文明のありがたさを知ることが目的だ、と昔習ったような気がするのだが、今は、キャンプに行っても、便利な暮らしを手放せない時代なんだナァ。

 こんな些細な日常の出来事からも、病む社会が見えてくるような出来事だった。

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