物差しが複数併存していることによる不安
不満
不毛
原子力発電を巡って、
交わされる意見の論拠が、違いすぎる。
健康や安全、平和な暮らしを続けたいという願いから出発する意見と
消費的生活の持続や経済的な繁栄・成長を続けることを前提とした価値観から出発する意見とが
「対等」であるかのように並べられて論じられる虚しさ。
そして、時には、双方が譲り合うようなポーズも見せつつ。
ほんとうは、突き詰めれば、この両者は並び立たないかも知れない。
未来にわたって、環境が生命を脅かすこのない世の中を作りたいと願うなら、やっぱり少々の快適さはガマンしなければならないかも知れない。
現在以上の快適さ、便利さ、カッコ良さを求め続けるなら、時は原子力発電所が暴走し、生命や財産を脅かされる危険性をはらむ。
どんなに知恵を絞っても、両者の良いとこ取りは成り立たないだろう。
それを、中途半端に両立できるかのような印象を与えるから、混乱がなかなか収拾しない。
きょうは、こんな事を考えながら道ばたの花を眺めていたら、金井 直さんの詩の一節が突然に頭に浮かんだ。
散る日 金井 直
さくらの花が散る 惜げもなく己れを捨てるすばらしさ
うれい顔がそれを眺める いま見たときから散りはじめた
ようなはなやかさを
見ているあいだに散り果ててしまいそうな風情
こんなにゆたかな心がどこにあろう 誰にも見られない
うちから散っているのだ
そしてまた 落花に酔った者たちが去ったのちも
さいはてにむかって散りつづけているのだ
『現代の名詩』小海永二編 大和書房刊
2011年7月7日木曜日
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