2013年5月14日火曜日
生き方・死に方・葬り方
父の死去に伴う一連の手続き等のために先週末から今日まで札幌に行っていた。
教員としての一生を貫き、親として子どもを守り育てることに没頭した父の人生だったから、借金も遺さなかったし多額の財産を遺したというわけでもない。
それでも一人の人間の生涯を終えるにあたって、するべきことは案外に多いもので、昨日一日と今日の半日、札幌市内を駆けまわって、ほぼ一段落を迎えることがきた。
あらためて、ヒトは独りでは生きられないものだと感じられた。
父は葬儀を拒否した。
生前から繰り返し葬式はするなと言っていた。そして、僕らはそれに従った。92歳と高齢だったために兄弟姉妹親戚や友人がほとんど残っていなかったこと、函館市で生まれ育ち働いてきた父には、札幌市には、知り合いがほとんどいなかったことなども、そんな決断を助けた。
5月5日の朝、父の身体は札幌市の里塚斎場から煙となって曇り空に拡散していった。見送ったのは、本当の近親の者だけだった。
死生観や価値観は多様だからいろいろな考え方があって良いと思う。故人の功績を讃え、大勢が詰めかけて別れを惜しむ場を設けたいと考える人も少なくないだろう。人生のけじめだからと思う人も多いと思う。身内の者の死を受け入れるために儀式は必要だとする考え方もあると思う。これらのどれも間違っていないと思う。
それに加えて、人の死に伴うしきたりや儀式は、他に比べてもっとも保守的で変わりにくい性格だろう。
そのような一般的な環境の中で、自らの葬り方を強く主張した父の「自己主張」に対して、あらためて軽い驚きを覚える。なぜなら、父は、これと言った政治的な主張や趣味もなく、ひたすら家族に尽くすことを自分に課する生き方をしていたからだ。
誰にでもあるお決まりのことだろうが、僕は高校から大学にかけて、人生観や思想や価値観などで父と激しく対立した時期があった。親子であるという事実の下で、その対立は緩和されいつの間にか曖昧になって時が流れたのではあるが、底流には相容れないものが最後までわだかまっていたように思う。
そして、最後の最後で、この「葬り方」を通して、彼は僕に強い主張をぶつけてきたのかも知れない。
これから時間をかけて、考えて行くことになるだろう。
2013年5月5日日曜日
父との別れ
米国からの帰国を待っていたかのように、3日午後8時に父が死んだ。
成田空港に到着し、全ての手続きを終えて出てきたのが午後2時過ぎ。その後、接続の飛行機が無く、その日は東京に宿泊することになっていた。予約してあったホテルにチェックインして一息ついていた夜の7時半過ぎに容態が危険な状態になったという連絡が入った。その後すぐに死亡したという連絡が来た。拍子抜けするようなあっけなさだった。
成田に着いてすぐに連絡があったなら、宿泊をキャンセルして駆けつけることができたかも知れないなどというのは結果論というものだろう。むしろ、僕の帰国する日まで待っていてくれたと考えるべきだと思った。
癌に冒され、最後は何も食べられなくなりながら、よく頑張ってくれたと思う。その結果、極端に軽くなった身体は、最終的には一抱えにも満たない骨に姿を変えた。
火葬直後の骨を入れた骨壺から胸に伝わってくる余熱が、父の体温であるかのような錯覚にとらわれつつ、92年間の人生が偲ばれた。もちろん子として理解できる範囲ではあるが。
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