2012年7月7日土曜日

「2点」確保・・・・告白

木曜日、羅臼高校の授業で羅臼町内の熊越えの滝まで行ったことは、既に書いた。
 実は、そこに書かなかったことがあった。
 その時、崖を登ったのだった。

熊越えの滝は、滝壺から流れ出る川の岸から眺めるのが一番近い。それと、もう一つ右岸側の小高い丘の上にも木の間越しに滝の全貌を見ることのできる展望所がある。
 かつては、滝壺からその丘まで登る道があった。しかし、何年か前に古い大木が倒れてその道をふさいでしまった。
 丘の上の展望所に行くには、来た道を戻って大迂回するか、今はふさがっている道を避けて崖を直登するしかない。10メートル少々の高さでササに覆われている斜面であるから、直登と言ってもさほどのことはない。今までも何度かそこを登っていた。
 そこで、あまり迷わずに崖に取りついた。
 普通、急斜面を登る時は、梯子を登る要領で、手と足の四点のうち常に3点で身体を確保しながら登る。
 今回は、左の鎖骨を庇って、左手を全く使わないようにして登った。右手と両足のうちの2点で身体を支える「2点確保」である。
 まずまず、無事に登り終えた。
 意気揚々と帰って来たが、異変は翌朝起こった。
 出勤しようとしてクルマのドアを開け、左足を運転席の床に置いた途端、左脇腹に激痛が走った。あまりの痛みで動くことができない。
ほぼ十分間、そのまま痛みに耐え、なんとか誤魔化して出勤したが、その痛みは、時々、波状に襲ってきた。
 折れて治りかけていた肋骨がまた悪化したか、などと心配になった。しかし、今日になって、わかった。その痛みは筋肉痛であるらしい。左の肩を庇い、不自然な姿勢で急勾配を登ったことが原因であるらしい。

 今日、鍼を打ってもらい楽になった。
 完全な回復まで、まだ道は遠いのかも知れない。
 あ~あ

2012年7月6日金曜日

たまには 時代劇 ふぁんたじい

その昔、江戸の街に「彩菓堂」という菓子屋があった。
 そこの主人は、大変な吝嗇で、高価な砂糖を使うのを嫌い、南の島で採れる「裏煮倦夢」(うらにうむ)という、サボテンの一種から作る合成甘味料を菓子に使うことを考え出した。
 「裏煮倦夢」を栽培する南の島には「宇蘭村」と呼ばれ、村ぐるみで栽培し、村役人と結託した商人「糖伝屋」(とうでんや)が農民からの集荷も甘味料の合成まで独占し、彩菓堂と癒着して巨利を得ていた。
 当然のことに幕府の役人に、彩菓堂や糖伝屋から毎年、多額の賄賂を贈られていた。
 幕府勘定方 甘味奉行 野田泥縄守(のだどろなわのかみ)の名台詞
 「糖伝屋!お主もワルよのう」

 ところが、「裏煮倦夢」から作った合成甘味料を食べた人々の間で、健康を害する人が続出した。
 最初のうちは、その因果関係は良くわからなかったが、何人もの学者が調べて裏煮倦夢の害が報告されるようになった。
 彩菓堂や糖伝からお金をもらっている学者たちも、それを打ち消す研究結果を作り出して、必死で隠そうとしたのだが、裏煮倦夢が有害だといういことが人々の間に知れ渡っていくのを止めることはできなかった。

 しかし、多額の賄賂をもらっている幕府は、彩菓堂の商売を停止しようともせず、放置し続けた。
 憤った人々は、大勢で彩菓堂の周りを取り巻いて、有害な商品の販売を止めさせようとした。その時の人々が声を合わせたかけ声は
「彩菓堂 反対、 彩菓堂 反対」というものだった。

 時は流れ、21世紀。
 その時の人々の子孫たちも、まだ叫んでいる。
「再稼働 反対、 再稼働 反対」

2012年7月5日木曜日

森に はいる

昨日は海へ出た。
 今日は森に入ろうと思った。

 羅臼高校の授業。
 「野外観察」で、少し前から「熊越えの滝」まで行くことを考えていた。
 「熊越えの滝」までは、国道脇の入り口から400メートルほど。山道とも言えない森の中の小道を進み、羅臼川の支流である翔雲川が約15メートルの崖を流れ落ちている。

 昨日の船で自信を付け、今日は自分の足であるくことに挑もうと思った。
 何でもない時なら一日に何往復でもできるこの滝が、事故以来とても遠いものに感じられた。
 岩や木の根がゴロゴロしている道を歩き通せるだろうか、という不安が澱のように心の底に溜まっていた。

 だが、行ってみるとどうやら難なく往復することができた。
 多少の疲労感は足に残ったが、これはやむを得ないだろう。
 事故の翌朝、自分の足で立てない事実に愕然となっていたのだ。そこから考えると何とかここまで回復できた。

 森は、エゾハルゼミの大合唱で祝福してくれた。


2012年7月4日水曜日

海に出る

とにかく海に出たかった。
 6月6日の事故以来、自由のきかない身体で、痛む足で、揺れる船に乗ることなどできるだろうか、という不安があった。
 いろいろな人の助けで、少しずつ回復し、歩く速さも元に戻りつつあったし、手もある程度自由に動かせるようになった。
 体力の回復には、まだ時間がかかるかも知れないが、それでも船に乗りたかった。海に惹かれていた。

 町内の理科教員の研修で、今日のホエールウォッチングが計画されていた。それを楽しみにしていた。
 5日も前から気圧配置を気にしていた。最近は気圧配置が固定化し、天気が大きく動くことがなかったので、「このまま行ける」と希望半分の予想を立てていた。
 そして、今日、心配されていた霧も薄くなり、波はほとんど無い。
 勇んで知床ネーチャークルーズの「EVER GREEN」に乗り込んだ。
 陸の建物より狭い船内、急な階段。
 だが、そんなものは気にならない。
 久しぶりに海に出られるのだ。

 最近の情報では、マッコウクジラはまだ来ておらず、シャチも数日前から姿を見せていないという。その代わりイシイルカとミンククジラがかなり来ているということで、まず上手(半島基部)の方向から反時計回りに前浜を一周した。

 海は、穏やかに迎え入れてくれ、いつもの表情を見せてくれた。
 ああ、生きているのだ、とあらためて感じた。

[野帳写し]
鯨類:イシイルカ  きわめて多数
   ミンククジラ 4頭以上
鳥類:オオセグロカモメ     
ハシブトガラス
ハシボソミズナギドリ  まだ、数百羽ずつの群れが多数散在していた。
フルマカモメ   八木浜沖で海獣(アザラシ?)の死体に集まっていた。
トウゾクカモメ 1羽
ウトウ 航路全体に少しずつ
ウミガラス 海岸町沖に3~4羽
ケイマフリ 海岸町沖に2羽
オジロワシ 帰港時に1羽


2012年7月3日火曜日

「不屈の民」(¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO! )のこと

少し前から、この歌が頭の芯で鳴り響いている。
 今となっては、古い歌だ。

 1973年9月、チリ。
 アメリカに追随しようとするピノチェトに率いられた軍事クーデターによって
 アジェンデ政権は倒された。
 アジェンデ大統領も戦死した。
 を支持する人々によって歌われた歌だ。

 アジェンデ大統領は、選挙で選ばれた大統領だ。
 銅山を国有化するなど、アメリカに追随する一部の者たちや大資本だけが巨利をあげていた当時のチリ社会を変えるべく立ち上がった。
 ピノチェト一派はそれを暴力で転覆させた。
 軍事クーデターで、アジェンデは殺された。
 最後まで抵抗しようとした多くの労働者、歌手、詩人が虐殺された。
ピノチェトらはの、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明。
 その後も、軍事政権の弾圧で多くの詩人や学者が殺されたり、国外に亡命したりした。
 「サンチャゴに雨が降る」という映画に詳しい。

 この闘いからたくさんの詩や歌が生まれた。


 どういうわけか、この数週間、この歌が頭から離れない。

「不屈の民」 訳詞 はぐるま座による
¡EL PUEBLO UNIDO JAMÁS SERÁ VENCIDO!
エル プエブロ ウニド
ハ マス セ ラ ベン シ ド

立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう

立ったままで歌を歌おう
国を追われ離ればなれ
世界の果てへ散っていった
多くの友が帰るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう

そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす

限りなく続いていく
陽をあびた白い道は
戦車や血のにおいを
運ぶためにあるのではなく
民衆がこの大地に育てた
愛を運ぶ

血塗られた祖国のため
祈りを込めて歌おう
殺され失われた
幾多の命のために
どこまでも歩き続け
闘いの火を燃やそう

そしていつか夜明けの陽が
この大地をかがやかす

2012年7月2日月曜日

近況報告(病状報告)

原発、沖縄の基地、消費税、社会への批判や不満が渦巻いているが、自分の身体も6月6日の事故以来、不具合な症状が渦巻いている。
 今日は、途中経過の記録という意味も兼ねて、現在の病状についてまとめることにする。
 したがって「憤りのブログ」は、今日はお休み。本当はものすごく怒りまくっているのだけれど。

 今日は病院へ行ってきた。
 退院後二回目の通院だった。
 前回は退院一週間後だった。路線バスを利用して、病院まで行ったが、今日は自分でクルマを運転して行った。
 運転は、前回の通院の翌日から、医師の同意を得て行っている。一日160kmの距離を走るし、会議等で斜里町まで行くこともあった。
 釧路までの通院もそれほど心配はしていなかったが、予想通り問題なく通院できた。

 X線写真を見たが、期待したよりも鎖骨の骨折部分が回復されていなかったことは、ちょっと残念に思えた。まあ、年齢相応の回復力なのかも知れない。
 それでも、前回の写真よりは、折れている骨の距離が縮まっていたことは、良い兆候だった。
 おそらく、折れた骨片の間に骨膜が形成され始めているのだろう。こればかりは、気力や努力や訓練で、どうにかなるものではなく、ひたすら待つしかないことだろう。

 肋骨の方は、昨日までは痛みも軽減していたのだが、昨夜から今朝にかけて、痛みが強まったように感じた。
 日曜日、ビニールハウスの水遣りや細々とした片付けなど、軽い作業をし、マニュアルの四輪駆動車を運転したことで、症状が悪化したのではないか、と心配したが、そういうことではないらしい。
 おそらく久しぶりに天候が悪化し気圧が低下したためだと思われる。
 振り返って見れば、二週間前、バスで行った時は、歩く速さも遅く、バスのステップを登るのも大変だった。この二週間で改善されたところはたくさんある。
 こちらの方も、「痛み」と折り合いをつけながら、気長に養生するしかないようだ。
 もう、夏に突入しようとしている自然界の移り変わりに比べ、いつまでもそこへ戻れない自分を思うと、いささかの焦りを禁じ得ないのでは、あるが。

気が付けば、左を庇う癖がすき 鎖骨への負担を意識する我

2012年7月1日日曜日

禍の日

あらゆる批判や危惧、反対の意見に耳を貸そうともせず、大飯原発の稼働が再開された。
 これは、まともな神経の持ち主のすることではなく、狂気や盲信が生み出す行動であろう。
 この事実をしっかりと記憶し、これから先にまだ起こるかも知れない災いの主犯がだれであるのか、すぐ見出せるようにしておかねばならない。