授業の時、生徒に色々なことを質問する。
業界の用語で「発問」と言う。
現代の日本の生徒は中学生くらいになると、教師の発問に積極的に答えるのはダサイことだと思っている者が多い。知っていても知らぬ態度をとる。
授業に対して非協力的なのだ。こういう態度をとる生徒たちに対して授業をするのは、とても難しい。若い教師が自信を失っていく原因にもなっていると思う。
日本の授業を悪くしている原因の一つはここにあると思うのだが、そのことには今は触れない。
生徒のノリの悪い時には、あらかじめ選択肢をいくつか準備しておいて、全員に答えてもらう。たいていのクラスはここまですれば、選択肢のどれかを選んで挙手する。実にダルそうに手を挙げる時もあるが。
もちろん選択肢ごとの挙手の人数をかぞえ、黒板に書いて知らせる。
そんな時、口癖のように僕が発する言葉、
「科学の世界では、いつも多数が正しいとは限らない。ガリレオが地動説を唱えた時はたった一人だった。ダーウィンの進化論も多数からの反対や迫害、嘲笑にを乗り越えて広がったんだよ」
要するに、「個々人が自分自身の頭で考え、それぞれ自分の考えを持て」と言いたいのだ。
自然界に潜む真理は、自明のこととして大勢に認められるようになるまでは、少数の人だけがそれに気づいているという状態あることが多い。
科学者と言えども社会生活を送る人間であり、自分の名声や地位、収入に無関心ではいられない。
地位、名誉、収入に関心を持ち、その向上を図ると、目は眩ってくる。
はじめ無意識に、やがて意識し積極的に、真理から乖離(かいり)し始めることになる。
人間は弱い。自信の無さ、あるいは罪悪感から、同じような所行の学者が群れるようになる。群れることで弱い自信を補強し合い、罪悪感を薄める。
つまり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という構造ですね。
しかも、それによって、地位や名誉よ収入が補償されるのだから、真理などクソクラエという気持ちになっても不思議ではない。
カネと名誉と地位は電力会社と国がガッチリ補償してくれるのだから。
今こそ、ガリレオやダーウィンのような、たった一人でも真理に誠実な研究者に出てきてもらいたい。
歴史の裁きに耐えて胸を張れる研究者も決して少なくはないはずだ。そういう人々は積極的に発言すべきだと思う。
まさか、中高生のように 「わかっていても黙っている」なんて人はいないだろうと思うが。
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