2012年9月30日日曜日
旅の記 その20
新たな旅に向けて
9月29日(土)ソウル(インチョン空港)~新千歳空港 30日(日)札幌~別海
29日。
ハイアットホテルを朝8時に出発した。
5分で空港着。
インチョン空港は大きなハブ空港だが、夜間の離発着はあまり行われていなく,午前9時台の出発便が集中していた。
そのため、搭乗手続きなどで時間がかかり、10時15分の定時出発だったが、あまり余裕はなかった。
新千歳空港には12時30分着。
再入国審査、税関ともに無事に通過。(あたりまえだが)
内地には台風が接近していた。
30日。
札幌を正午に出発し、夜7時に別海の自宅に帰り着いた。
今回の旅はすべて終わった。
復路の航空券が取れなくて帰国の日を一日延ばしにしたこともあり二週間を越える長い旅になった。
昨夜、韓国の高級ホテルで一泊できたお陰で、時差惚けはもうほとんど無い。札幌から本別海までの運転もいつもと変わらなかった。
ただ、仕事を通して社会参加している身にとって、これから日本社会に適応していくのに少々時間がかかるかも知れない。
海外にでかけると毎度のことだが、実は、この「社会復帰」が案外厄介だ。
今回、旅行中に盛んに話し合ったのは「日本のガラパゴス化」である。
島国で、つい百年と少し前まで鎖国していたということもあるが、「日本の標準」と「世界一般の標準」とで違うことが多すぎるとあらためて感じた。
もちろん中には「日本の標準」で優れているものもある。もっと世界に普及しても良いのにというものもある。だが、そうでないものも多い。
今回の旅の大きな収穫の一つは、ウィーン大学の日本研究所のスタッフの人々と知り合えたことである。
大学の研究者だから、日本文化に精通していて、かつ外部の視点から現代日本を冷静に分析している。この人々の評価に耳を傾けてわれわれの社会の、今後のあり方を考えていく参考にすることは有効な事だと思う。
日本社会が、混迷を深め、政治的に非常に危険な傾斜を増しつつある現在、彼らから学ぶ機会をもっと増やしたいと思った。
という訳で、これからもまた新しい旅を計画したい。
次の旅発をあれこれ考え始めたというところで、この「旅の記録」は、これで留めることにする。
2012年9月28日金曜日
旅の記 その19
9月28日(金) ソウル・・・インチョン 韓国でまさかの途中下車
今回の旅は、大韓航空を使わせてもらった。
新千歳~ソウル(インチョン)~ヨーロッパという行程で、帰路もその逆をたどった。
昨夜、ウィーンを1時間遅れて出発。チューリッヒに立ち寄り、夜10時半にチューリッヒを発ってソウルに向かった。
若干の遅れはありながら、まず順調に旅程をこなしていった。
ところが、インチョン空港に着き、「もうあと一息」という時に事態は急転した。
飛行機の降り口で僕たちの名前を書いた紙を持った大韓航空の職員が待っていた。怪訝におもいながらも、乗り継ぎに関する連絡か何かだろうと思いながら名前を告げた。
彼の口から思いもよらぬ言葉が飛び出した。
「今日、登場する予定の便の座席を譲って頂けませんか?その代わり明日の第一便のビジネスクラスの座席とホテル宿泊などをお礼に差し上げます」というような話だった。
今夜遅く札幌に着いて泊まる予定でいたので少々驚き戸惑い、それでもまあ、特別に急ぐ用とて無いので、申し出を受けることにした。
それから急な入獄手続きを済ますと案内されたのは空港そばにある立派なホテルだった。
その10階の部屋に収まり、豪華な夕食を食べ、ヨーロッパのホテルでは、どこのホテルにも無かったバスタブの湯にゆったりと浸かって、時差ボケを休めてから帰ることができそうである。
どうして、このような「降って湧いたような」厚遇に出会ったのか。われわれが座席を譲ったことで、どこかで誰かがホッとしているのだろうか。
そこら辺りはよくわからない。わからないが、とにかく韓国で1万キロ近い移動の疲れを癒せることになった。
大韓航空に感謝。
2012年9月27日木曜日
旅の記 その18
9月27日(木) ウィーン最終日・・・旅の最終日
やっと馴染み始めた旅先の街の表情が、旅を終えて帰路に就く日には妙によそよそしく感じるのはいつの旅でも同じである。
夕方の出発まで、天候の悪化を必死にこらえているような空模様の中を最後の町歩きにでかけた。
今回の旅は、「友人の結婚式」という大義名分があったことと、復路の航空券がなかかな確保できなかったことを理由に、2週間を超える長いものになった。
ヨーロッパでの滞在も、4カ国6つの都市に及び、中欧から東欧の入り口にかけての土地を堪能できたと思う。
その分、仕事上のあちこちには義理を欠くことになり、迷惑をかけてきた。
この旅でヨーロッパのエッセンスに触れることが出来たように思う。この土地に立ってみると、魔女がいて、王様やお姫様がいて、騎士がいて、錬金術師、辻音楽師、商人、職人、もちろん農民、聖人、大悪人・・・・・虚実が入り交じって意識の中を通り過ぎていくのを感じる。
そんな風に吹かれながら、生々しい印象を記しておきたくて、PCを立ち上げた。
これから、この印象をよく咀嚼し消化して、人間について、社会についてもう少し深く考え、今後の仕事に生かしていければと思う。
いま、ウィーンは午後2時前。
こらえきれなくなった空から時々雨が降っている。
今回の旅では、ほとんど毎日が晴天に恵まれた。特にポーランド、チェコ、スロバキアでは、雨に当たることは全くなかった。その面でもありがたいことである。
ウィーンに着いた日、最初に訪れたレオポルド美術館のカフェに、また来ている。
これからホテルに預けてある荷物を受け取り、鉄道を乗り継いで空港に向かうつもりだ。
旅の記 その17
9月26日(水) ブラチスラヴァ~ウィーン。フンデルト・ワッサーのこと
ブラチスラヴァからウィーンに戻った。
この旅では、ずっと好天に恵まれ、今日も暑いくらいだ。
ドナウ川は今日もとうとうと流れている。
デヴィーン城をあらためて眺めてみた。今回は行くことが出来なかったが、次に機会があったら是非訪ねてみたいと思った。
ドナウ川は10カ国もの国を通る国際河川で、名前もいろいろとある。ちょっと調べてみた。(ラテン語:Danubius、スロヴァキア語:Dunaj、セルボクロアチア語:Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre、英語、フランス語: Danube)は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河だという。
いろいろな民族や文化、国の栄枯盛衰を黙って見つめ、流れ続けてきたのだろう。
今までにシベリアの大河はいくつか見てきたが、ドナウ川は、それらとは違って人間社会の中を流れている大河である。
今回の我々の旅に、この川は優しく微笑んでくれた。
フンデルト・ワッサーという画家がデザインした建物が、ウィーンの船着き場の近くにあるので観に行ってきた。
スペインのガウディとも共通する有機的なデザインと鮮やかな色彩の建物が、実際に使われていた。ある種の天才なのだろう。
中心街にほど近い電車通りに面した一画に、そのビルはあった。
それにしてもこの大胆なデザインを建築物に取り入れる大胆さというか剛胆さはさすが芸術を尊重する町だと思った。
2012年9月26日水曜日
旅の記 その16
9月25日(火) ブラチスラヴァ~ニトラ~ブラチスラヴァ
旅の後半は、あまり計画を持たない行き当たりばったりの旅になっている。
いくつかの選択肢があったが、結局ブラチスラヴァからバスで1時間から2時間かかるというニトラという町へ行ってみることにした。
スロヴァキアでもっとも古い教会の建てられた土地だという、人口は10万人足らずの小さな町だ。
ドナウ川に浮かぶホテルから市内の路線バスでバスターミナル(こちらの人は「バスステーション」と呼んでいた)へ移動する。自動販売機で切符を買い、バスに乗ったら車内の改札機で時刻を刻印する。ポーランドもチェコもオーストリアも、今回回った国ではすべて、公共交通機関の料金は時間制だ。
ブラチスラヴァでは、基本になる最低料金は70セント(現在のレートではほぼ70円)で15分以内となっている。15分以内なら何回乗降してもかまわない。その切符を持ってさえいれば、停留場で勝手に乗降できる。切符を買わずに不正乗車し放題のように感じるが、時々抜き打ちの検札があって、ルールに従っていない人には厳しい罰金が課せられるという。どのくらい「厳しい」のか知らないし、検札の現場を見たことはないが、誰もがルールを守っているようだ。
バスターミナルは街の中にあり、結構広い。遠距離のバスも頻繁に発着しているようで、今日の目的地ニトラまでの便も10~15分おきに出ている。
ニトラまでは鉄道もあるが、鉄道は一日2~3列車しかない。鉄道は貨物輸送が中心になっているのかも知れない。
ニトラのバスターミナルに着いた。
町は、旧市街と新市街とに分かれていて、旧市街の方は迷う心配がない大きさである。
事前に聞いていたとおり、古風な町並みが残っており、小高い丘の上に建てられたニトラ城には4~5世紀頃のからバロック時代までの建築様式が複合した教会が残っている。
一つの教会の内部を見せてもらうことが出来たが、青を中心としたステンドグラス越しの光が、内部のバロック風の装飾を美しく照らして、一瞬恍惚となる美しさだった。
町の広場に降り、カフェテリアで昼食。昨日の失敗に懲りて、総量を抑え気味にするように努めた。
ビールを、と思い注文したところが出されたのはアルコール分0.0%のビール様飲料。ちょっと悔しかったが、缶を開けてしまったので観念してそれで我慢した。だがまあ、それはそれで美味しかった。
昼食後、インフォメーションセンターに併設されている博物館へ。入り口が分からずウロウロしていると先生に引率された小学生の一団とすれ違った。
この集団は間違いなく博物館へ行くに違いないと、職業的な第六感で後に付いていくと予想的中。博物館に入ることが出来た。
ところが、その博物館には、高校生か中学生くらいの子どもたちも学習に来ていて、説明を担当していた係の人が、何をどう誤解したのか僕らをその中高生の集団に入れ、一緒に見学させてくれた。
しかし、その係の彼女は英語をまったく解さず、こちらもスロバキア語の解説を聞いてもチンプンカンプンだ。しばしの間、付き合ったが、途中で
「すみません。バスの時間がありませんので」とロシア語で伝えてやっと解放された。
そうは言っても親切はとても嬉しかったし、思いがけず小中学生の博物館学習の現場にも立ち会うことが出来て、幸運であった。
この国には観光客も多く、スロバキア語、ドイツ語、ロシア語、英語、イタリア語などが混じり合って飛び交っている。おまけに大学の表示にはラテン語が使われていて、言語のるつぼである。
旅の記 その15
9月24日(月) partⅡ
ブラチスラヴァ 息づく中世・・・・辻音楽師
スロヴァキアは若い国だ。チェコから分離独立してまだ19年にしかならない。来年は20周年である。
ザッと見たこの国の歴史は、そのほとんどが外国の支配下になった歴史である。オーストリア帝国とハンガリー帝国という強大な国に挟まれ、それ以外の時にはトルコやタタールなどが攻め入って来ていた。
『スロヴァキア』として独立したのは、ひょっとしたら初めてのことかも知れない。そのせいか、スロヴァキアの人々は、少し控えめに見えるが粘り強く、物事を冷静に見ている人が多いように思う。
あからさまに親切ではないが、心の底には親切な気持ちが満ちあふれている、と言ったら良いだろうか。街で不愉快な思いは、まったくしなかった。
ブラチスラヴァの街、とりわけ旧市街は、そのように意識して作られているためもあるだろうが、中世の世界に迷い込んだような雰囲気だ。町並みや道路、店のレイアウトなどがすべてそのように統一されている。
「アルケミスト(錬金術師」という名のレストランがあったり、中世ヨーロッパらしい扮装の銅像があったりする。
お城に登り、あちこちの店をのぞきながら歩いていると街角で楽器を弾く弾いている人がいた。変わった楽器で勢いよく回転する車輪で弦をこすりながら音を出し、鍵盤に似た木の板で押さえて音階を決める。初めて見た楽器だが、以前にラジオの音楽番組で解説されていた「ドレライヤー」または「ハーディーガーディー」という楽器ではないかと思った。
演奏している辻音楽師のおじさんに訊いてみるとはたして「その通りだ」という答えが返ってきた。その人は「ホィールフィードル」と呼んでいたが。
アラビア辺りが起源の古い楽器で、なんとも古風な音が出る。だが、どこか懐かしい素朴な音色で、この街並みに静かに溶け込んでいくようだった。
しばらくそのおじさんと話をした。話をしたと言っても互いに英語では十分に意思疎通できず、少しもどかしさを伴った会話だったが、
「フクシマの様子はどうなんだい?もう人が住めるようになったの?」という質問もされた。
「まだ大勢の人が避難生活をしています。当分帰れないかも知れません」と答えると、表情を歪め、いかにも気の毒だという気持ちを表してくれた。
日本からはるか離れた、こんな小さな街の辻音楽師にまで心配されるような大災害をわれわれは抱えているのだ、と再認識した。
旅の記 その14
9月24日(月) ウィーン~ブラチスラヴァ 川旅 ドナウ川
朝、8時前にホテルを出る。
地下鉄U2で一駅。ここでU1に乗り換えて二駅、ドナウ川に通じる運河に面した桟橋のある駅に着いた。
前日に下見をしていたので、遅れることもなかった。ホテルから歩いても30分かからずに着くのだが、船の出発時刻が決まっているこのようなときは、地下鉄の利用が効果的だと思う。
船は1000馬力のエンジンを2基積んだジェットフォイル船で、時速50キロも出るという。これでブラチスラヴァまで1時間15分で着く。
船は、ほぼ満席。定時に船着き場を離れた。
ウィーンの町中を流れる運河を走っている間、両側には町並みが広がり、大河の面影は感じられない。しかし、15分くらい経って本流に入ると両岸の距離が一気に広がり、古くから多くの人や物を運んできた大河の様相が伝わってくる。
流れに沿って東へ東へと進む。ウィーンの森を抜けてからしばらくは両岸に平野が開け、流れもゆったりとしている。
やがて低い山の間を抜けると左岸に古い城跡が見えてきた。10世紀以前に使われていたデヴィーン城だ。
絵に描いたような「古城」で、古い音楽が聞こえてきそうなたたずまいだ。
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