2012年10月7日日曜日
野付半島の悲しい空
青空の広がる気持ちの良い天気になった今日、一年以上、間をおいて野付半島へ行った。
いつもの通り観光客で賑わうトドワラを避け、灯台のある龍神崎まで直行し、一本松へ向かう道に入った。
この道には、車が入られない。野付半島のもっとも広い原野の真っ只中を突っ切る道だ。
道に覆いかぶさるように生えているススキの穂が金色に輝いて、あたりに光の粉が立ちこめているようだ。
遠い波の音、時おり聞こえるキアシシギの声。他にはまったく音は無い。
野付半島先端部の良さは、これだ。などと考えている突然けたたましいエンジン音が空から降ってきた。見るとモーターパラグライダー3~4台が空を飛び回っている。野付半島心臓部の静謐に上空から容赦なく浴びせられるエンジン音は似合わない。
そう言えば、駐車場に、旭川のクラブの名前を書いたキャンピングトレーラーが数台止まっていた。わざわざ野付半島まで、飛びにきているらしい。
見ていると灯台近くの淡水沼で休んでいたらしいカモの群れが一斉に飛び立って逃げ出した。カモやサギなどの水鳥は視界の良い開放的な水面で活動するので、われわれが想像する以上に上空を気にしている。
タカやワシがその上空をちょっと飛んだだけで、みな一斉に飛んで逃げ散る。人間が上空から脅かすなど言語道断だ。
「今日よりは、日本の雁ぞ 楽に寝よ」と小林一茶は詠んだ。虫や鳥など小さな生命を愛で、常に弱い者の味方をした一茶らしい句だ。今、千島列島沿いに、あるいはサハリンからオホーツク海の海岸に沿って、たくさんの渡り鳥が渡ってきている。根室海峡の沖合に大きく張り出した野付半島は、そんな渡り鳥たちにとって真水があり餌も採れる絶好の中継地となっている。いわば水鳥の国際空港とも言える。
だからこそラムサール条約(特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)登録湿地になったはずだ。
何千キロにもわたり、命がけの旅を続け、やっとたどり着いた水鳥たちが、都会から押しかけた一部のモーパラ愛好家によって、一休みする間もなく追い立てられている事実は、断じて許すわけにはいかない。
帰りがけに野付半島ネーチャーセンターに立ち寄って尋ねてみた。
NCでは、野付半島がモーターパラグライダーのフィールドとして利用されている事実は認識しているようだったが、「法的に禁止されていない」という理由で、積極的な規制措置をとれる立場にないということだった。
それはその通りかも知れないが、渡り鳥の保護という趣旨を徹底させるためにもネーチャーセンターを運営している別海観光公社や別海町は、道立自然公園の管理者である北海道と協議して対策を立てるとか、モーパラの安全や道徳教育を進めている日本ハング・パラグライディング連盟や日本パラモーター協会などの団体と交渉するなど、積極的な対応や努力をするべきではないだろうか。
ラムサール条約は、観光客にアピールするための看板ではないはずだ。
以前にもこのブログに書いたことだが、野付半島はラムサール条約登録のための鳥獣保護区設定に際しても半島先端部の自然環境上の核となる地域をそっくりそのまま可猟区として残すなど杜撰な自然保護施策がなされている「問題の区域」である。
何が背景にあって、このようないい加減な自然保護行政がまかり通っているのか、よくわからないが、この上にさらに水鳥の生息環境悪化を放置するなら、日本の自然保護行政の恥部を世界に曝すことにもなりかねないだろう。
2012年10月6日土曜日
復讐を志向する日本社会の危うさ
10月に入り間もなく1週間が経つ。
まだ、紅葉は、はっきりとは見られないが樹木の葉の緑色は、すでに勢いを失いつつあるように感じる。冷え込みが来れば一気に紅葉することだろう。
今度のヨーロッパ旅行では有形無形の収穫がたくさんあったが、ウィーン大学の日本研究の先生方と出会ったことは、取り分けて印象深い。ウィーン大学には「東アジア研究所」というセクションがあり、様々な研究者がいろいろな分野の研究をしている。そして、皆非常に優秀な人々だ。
なかでも印象深かったのはローランドさんという方だった。
ローランド・ドメーニグ先生は東アジア研究所の准教授で、日本映画の研究をしている。日本人の僕が知らないような映画についてまで、よく知っていて、穏やかながら説得力ある語り口で親しげに話をしてくれた。
それもそのはずで、帰国してから調べてみると、彼は、日本の映画界でも名前の知られた日本映画研究の第一人者だったのだ。
2月には日本映像翻訳アカデミーの特別講義で講師を務めている。その紹介文によると
「(ドメーニグ氏は、)独自の視点を持つ日本映画史の専門家としても世界的に知られています。また、映画祭のキュレーターやプログラマーとして国際的に活躍すると同時に、『もののけ姫』(宮崎駿監督)のベルリン映画祭出展用ドイツ語字幕を手がけるなど映像翻訳者としても実績を残しています。」
ローランドさんは、「最近の日本映画の特徴として『復讐』をテーマにしたものが増えている」とう話してくれた。
「何か思い当たるような背景はありますか」ときかれて、
「社会全体が、復讐に寛容になっているように思う。死刑判決の基準が下がっているという指摘もあるし、死刑制度を指示する世論の割合も高止まりしているし・・・」などと答えたが、氏はこのことは既に知っている様子だった。
社会運動家ではなく研究者であるローランドさんは、初対面の僕に対する配慮もあってか、この話題をそれ以上踏み込んで展開させようとはしなかったが、今の日本社会が向かっている方向の危うさを言外に滲ませたように感じられた。
責任の追及と復讐とは違う。
現代の日本社会の向かおうとしてる傾向を、海外から冷静に観察している人々がいるということをわれわれは知るべきで、そういう人々の意見にもっと耳を傾け、この国がどこへ向かおうとしているかを厳しくチェックするべきだろう。
それら研究者の見解は、客観的で利害関係が無いだけに聴く価値があると思う。
また会って、もっと話を聴いてみたい人々の一人である
2012年10月5日金曜日
言葉を侮辱する者たち
「可能な限り市街地上空ではプロペラの向きを変えない」というのは、「可能でない場合は、市街地上空であっても向きを変えることがある」という意味だ。
「直ちに健康に障害の出るレベルではない」は「長期的に見ると、健康被害が出る虞がある」という意味だ。
別に今に始まったことではないが、この国の政治家や官僚は、寄ってたかって母語を貶めている。
世界中に何種類の言語があるものかわからないが、どんな国のどんな人々でも母語を大切にし、できるだけ美しい言葉にしたいと願い、そう努力しているのではないか。
日本語も、地理的な理由から、他の言語とそれほど強く混じり合うことなく、美しい伝統を蓄え続けてきたのではないだろうか。すぐれた文学作品はたくさんある。
何かと言えば「日本」を誇り、真っ赤な誤りながら「単一民族」などと鼻の穴を膨らませて威張り散らしたいような人たちが、こぞって言葉を醜く貶めている。
今に始まったことではないが。
2012年10月4日木曜日
取り残されている気がする 日本
台風19号が根室のはるか沖合を通過して行ったせいか、雲が怪しげに動き、時折激しい雨も降った。
激しい風が知床の山に当たって、局地的は雨を降らせている。
今日、羅臼町の中高生は一つの講演を聴いた。開発援助を行うNGOを作り、エチオピアで活動していた人が来てくれたのだ。
講演は、エチオピアの貧しい農村を真に豊かにするために、どんな援助の方法が良かったのか、という話が中心だった。つまり、モノやお金を手渡しても、それがなかなか援助になりにくい。そこに住む人々の生活を変え、意識を変え、意欲を引き出すことが真の援助につながっていく、という趣旨のものだった。そのためには、その地域の住民の精神的、経済的自立を促すような援助を行うべきで、政府の途上国向け援助は、その意味で十分な成果をあげているとは言えない。物質面での援助に加えて、集落が精神的に自立していくような工夫が、これからの時代には求められる。
そのために彼らのNGOがどれほど努力しているか、という話が中心だった。
村が経済的に豊かになることで、貧しさ故の森林伐採はおさまり、環境の保全にもつながることになる。
先進諸国は、環境のことを考えるならば、途上国への援助の仕方を考え直さなければならない。
講演そのものも非常に興味深い内容であったが、話を聞きながら少し驚いたことがあった。
それは、この40~50年間にエチオピアの辿った歴史である。
エチオピアはアフリカ最古の独立国で、1974年まで皇帝が統治していたが、軍部のクーデターによって廃位となりエチオピア連邦民主共和国となった。
こうして出来た政権は社会主義政策を推進したが、ソ連の崩壊に伴う世界的な政治変動や当時の国内の独立運動などによって1991年に政変が起き、2000年以降安定した政権が続いている。
この話を聴いて、ふと気づいたのだが、1990年代以降、世界の多くの国で政変や政権交代が頻発していたのだ。
この世界的に嵐が吹き荒れていた時代にも、日本は多くの矛盾や不条理を抱えながら政治的には全く変わり映えしていない。カタチだけの「政権交代」はあったもののその中身は、さして変わったとは言い難い。
「日本の悲しい現実」をここでも突き付けられた。
2012年10月3日水曜日
スロバキアを去る日 ブラチスラヴァの小公園で
スロバキアのブラチスラヴァでは、ドナウ川に浮かぶ船を改造したホテルに泊まった。boat の hotel だからbotelと表示してあり、最初、スロバキア語ではホテルのことを「botel」と言うと思った。何しろcoffeeがkova なのだから。
ホテルの前の川岸から道路まで2~30メートルくらい離れていて、その間が公園のようになっている。ジョギングをする人、イヌを散歩させる人、ベンチで語り合うカップルなどブラチスラヴァの人々が思い思いに過ごしていた。
帰る日、船着き場まで歩いていると、その公園に銅像があることに気づいた。ヨーロッパの街には、いろいろな銅像がたくさんあるから、細書はあまり気に止めなかった。しかし、よく見ると、その銅像は、片眼をハンカチのような布で覆い、右腕に銃を持ち、左手でぐったりとした別の男性を抱きかかえて、精悍な表情で遠くを見つめている。
そして、その台座には、
「KTO PADNE V BOJI ZA SLOBODU, NEZOMIERA」
と書かれており、その下には
「HRDINSKYM BULHARSKYM PARTIZANOM
KTORI POLOZILI ZIVOT ZA
NASU SLOBODU.」と書かれたプレートが貼り付けられていた。
スロヴァキア語は、まったくわからず、周りにそれを理解できる人もいない。インターネットの翻訳で、手探りに調べてみた。
台座の文は、「自由のための戦いで死んだ者は、死ぬことがない」というような意味らしい。
そして、プレートには、
「私たちの自由に命を捧げたブルガリアの英雄的なパルチザンのために」というような意味になるのだろうか。
(もし、スロバキア語をご存じの方がこれをお読みになったら、間違いをご指摘下さい。
そうしてくだされば、とても嬉しく存じます。)
第二次世界大戦の時、ナチスドイツに占領され後も抵抗を続けたパルチザンは、チェコやボスニア、スロヴェニアなどで粘り強く活動して、ドイツ軍を悩ましたことはよく知られているが、この地でも激しい活動が行われていたことが実感される。
銅像の前には花束が捧げられており、周りはきれいに清掃されている。もう忘れられかけている遠い日の出来事であろうが、その後もソ連との軋轢、チェコからの分離と、独立までに紆余曲折を経なければならなかったスロバキアの人々の思いが伝わってくるように感じた。
日本はどうか?
地理的な条件から、国が独立していることの意味とありがたさをどれだけの人が理解しているだろう?
形ばかり「独立国」とされていても、実態はアメリカの思うままに基地を提供し、米軍人に対する裁判権すらなく、率先してお金まで負担している。それで「独立国です」と言えるのか?
そして、そのツケは全部国民に回している政府が70年近くも君臨しているというのに国民は独立しているような共同幻想を抱いている。
ブラチスラヴァを去る間際、この銅像は無言でそんなことを語りかけてくるようだった。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」 寺山修司の歌が心に浮かんだ。
2012年10月2日火曜日
冬のゆりかご
旅の帰り、飛行機は1万メートルを超える高さでシベリアの上空を飛んでいた。
そろそろかな、と思い窓の遮光シャッターを開ける。眼下にはシベリアの山が広がっている。やがてバイカル湖が見え始めた。
僕がシベリアに魅入られる原点となった湖。
「シベリアの真珠」にふさわしい深い色の湖面が朝の光を照り返していた。
何度目の邂逅だろう。バイカルをまた、見ることができた。
それだけでも、旅に出た甲斐がある。
ふと見るとバイカル湖の東岸に沿って伸びるバルグジン山脈の頂が、雪を被っている。まだ、9月末。一瞬目を疑った。一年中消えない雪か、と思った。
だが、この山脈の標高は2800メートル程度で、万年雪は無いはずだ。
それにふわっと粉砂糖をまぶしたような積もりかたに見える。新しい雪だと思う。
初雪かどうかはわからないが、これからやって来る冬の雪に違いない。
ああ、冬は、こんな場所で、こうやって生まれているのだ。
こんなことを考えていると、僕の住む北海道に冬がやって来るのが待ち遠しいような思いがしてくる。
2012年10月1日月曜日
サギの森
北海道中央部、石狩平野の南東の丘陵地帯はかつて大森林地帯だった。
その片鱗が非常に微かに残さっている野幌森林公園に「サギの森」という場所がある。そこではアオサギの集団繁殖地(コロニー)がある。
もっともアオサギという鳥は、時々コロニーを移すそうだから今はどうなっているのだろう。
僕の学生時代には、遠くからでもはっきりわかるほどアオサギの糞で幹が白くなった樹木が何本も並んでいて、ちょっと異様な印象を受けた。誰にでも知られている場所で、「サギの森」というバス停もあったように記憶している。
バスに乗ってそこを通るたびに「サギの森です」という車内アナウンスが流れた。
サギは、羽が白いことから「サヤケキ(鮮明である)」の意味だとか、
鳴き声が騒々しから「サヤギ(騒)」だとか、
「サケ(細毛)」や「サケ(白毛)」が語源だとする説、
「キ」または「ギ」は、トキ(朱鷺)、シギ(鴫)などと同じように鳥を意味する接尾語で、「サユ(白湯)」などに使われている白を意味する「サ」が最初に付いて「サギ」すなわり「白い鳥」の意味だという説など様々な説がある。
漢字の「鷺」も「透き通る白いつゆ」を意味する「露」と「鳥」の組み合わせで出来ている「透き通るように白い鳥」という意味だという。
別の資料では、平安時代の官位で、正四位下に「参議」という職があり、その「サンギ」から名付けられたという説もある。ゴイサギという鳥は「五位鷺」と書くから、この説などは説得力がある。
いずれにしても透き通るように純白で、高貴な官位に由来する、優雅で上品な鳥というイメージを振りまいている。
ゆめゆめ当節流行の「詐欺」と混同してはならないだろう。
日本の安全のために、沖縄県民の安全には目をつぶり、オスプレイを配備すると言う。 原発を稼働させる時は、「私の責任で」と言った人が、「あれは最終的に安全委員会が判断した」と言い始める。
この先稼働できる見込みのない原発の建設工事を再開させておいて、「あれは建設者側の判断だ」という。
日本の政治家の巣くっている所こそまさに「詐欺の森」だと思う。
そう言えば、サギという鳥たち、優雅な印象もあるが、あれでなかなか狡賢く、喧しく成長の限界の見えた立木の多い林にコロニーを作って樹勢を弱め、枯死するとあっさり集団移転する、なかなかにしたたかな一面も持っている。
サギの森の悪いサギたちを根絶やしにしないと、日本が枯死する日は近い。
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