2011年4月27日水曜日

4.28 沖縄デー

 オオジシギ初鳴き(初ディスプレイフライトと言うべきですね)

 この季節、春への歩みが加速する。
 バイケイソウ、エゾエンゴサク、イラクサ、クロユリなど家の前の草地に生える草の芽が日ごとに伸びていく。本当に一日でも目を離すと別世界になるようだ。
 春が爆発している。

 ただ、冬の名残のような寒気が大陸から不意に流れ込んでくるのもこの季節の特徴だ。 一昨年の今日は、猛吹雪の夜に、夏タイヤに換えていた車を恐る恐る釧路まで走らせたこともあったっけ。
知床峠の開通も、ほぼ例年、明日28日に予定されているのだが、毎年、無事に峠が開いたことがなかった。
 明日も「雨」の予報が出ている。どうなることだろう。

 ところで明日4月28日と言えば、1952年にサンフランシスコ条約が発効した日だ。その日から沖縄は本土から切り離された。
 本土の人々は、大部分がもうこのことを忘れているだろう。そして、若い人々は、この出来事の意味すら理解できないかも知れない。
 だが、昨年=2010年4月28日の「琉球新報」では、次のような記事が掲載されていた。(一部抜粋)

  サンフランシスコ講和条約が発効した。沖縄、奄美、大東を含む南西諸島は日本から切り離され、米国の統治下に置かれた。沖縄が切り捨てられた「屈辱の日」として忘れてはならない。
 太平洋戦争で沖縄は本土防衛の「捨て石」とされた。日本で唯一おびただしい数の住民を巻き込んだ地上戦が行われ、20万人余が犠牲になった。このうち約9万4千人は沖縄の一般住民で、軍人の死者よりもはるかに多い。
 国民を守るはずの日本軍は、しばしば住民を避難壕から無理やり追い出し、食料を奪った。中にはスパイの嫌疑をかけられ殺害された人や、集団自決(強制集団死)に追い込まれた人たちもいる。
 米軍は沖縄占領後、嘉手納飛行場や普天間飛行場を整備。戦後も住民の大切な土地を銃剣とブルドーザーによって強制的に接収し、広大な基地建設を推し進めた。
 日本は、サンフランシスコ講和条約によって主権を回復する一方で、沖縄統治を米国に委ねた。
 「捨て石」にされた上、米国の施政権の下に置かれた沖縄住民は日本にとって一体何だったのか。
 米軍は沖縄の自治権を抑圧し、68年に屋良朝苗氏が選挙によって主席に就任するまで、全琉球住民の代表者を自身の手で選ぶ権利さえ認めなかった。(以下略)

 「中央」が「地方」を切り捨てて生き延びようとする構造は、いまだに変わっていないのではないか。
 原子力発電所の事故への対応からもそれはハッキリと見える。そもそも福島の原発で作られた電気は東京で使われていたのだ。
 さらに、その原発から出た廃棄物は青森とか北海道など「遠い所」へ運び、蓋をして知らんぷりを決め込もうというのが今の原子力政策だ。

 江戸幕府でもあるまいし、「中央」が「中央」という意識を持つこと自体が、すでに大罪だと思う。

 でも、いつまでも「中央」であり続けられるワケはないサ。

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