2011年4月16日土曜日

「風評」への疑問

原子力発電所の大事故に伴って、「風評被害が出ている」と言われている。

 「風評」とは「世間であれこれ取りざたすること。また、その内容。うわさ。」のことなのだそうだ。
 「根拠の無いうわさ」という意味でもよく使われる。

 福島県から転入してきた児童に対して周りの子どもたちが
 「放射能がうつる」と言って排除したというニュースがあったけれど、これなどは明らかに風評によるものだろう。人間の尊厳を踏みにじる卑劣な行為だ。

 だが、原発周辺で採れた野菜や魚などが売れないことを一概に「風評被害」と決めつけてよいものだろうか。中には「風評」ではなく、根拠のあるケースもあると思う。

 なぜなら:
 一次産品が出荷できるかどうかは、放射能が基準を超えているかどうかで決まる。だから基準値以下であれば出荷される。そして、その「基準」は、まったくの平常値つまり原子力発電所事故による影響が無かった場合の放射能の濃度より高い場合もあるわけだ。
 「基準」は人体への影響の有無で判断されているから。

 つまり、今回の事故で汚染されていても、それが「基準値」以下だったら安全だとして出荷が認められているということだ。

 もちろん、人体への影響は、十分検討されて決められている、と思いたい。だが、自分の口に入る食物は自分の責任で選びたいから、食べる側が最終的な基準を持たなければならない。

 だから、物事を単純化して、「安全」か「危険」かの二者択一に持ち込まれるのは迷惑千万だ。消費する側が主体性をもって、判断し、自分の責任で選びたい。それができない状態で、汚染が疑われる地域の一次産品を拒否することを「風評」と呼んでほしくないのである。

 もちろんその地域の生産者は気の毒だし、同情する。応援してあげたい。だが、その感情と、放射能に対する考え方は全く別のことだ。

 「風評被害→根拠の無い差別→生産者が気の毒→あの産地の物を積極的に食べよう」という善意と義侠心に訴えて「風評」を消そうというのは姑息なやり方だ。知と情とを混同すべきではない。
 まして、それを意識的に推し進めんがため、情報を隠したり「基準」を歪曲するのはもってのほかだ。

 僕は食べない。  

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