2012年2月22日水曜日

日本海のこと

「日本海」と聞いて、何を連想するだろう?
荒波? 吹雪? 失恋? 夕日? 演歌?
 最近はあまり使われなくなったが、むかし、日本海沿岸を「裏日本」と呼んでいた。そこからは、寂しさ、哀れさ、切なさが感じられる。

知床半島は観光地として有名だ(と思う)が、知床五湖やフレペの滝などよく知られた観光スポットがあり、大きなホテルやお土産店も多い網走側の斜里町ウトロが、知床国立公園の「表玄関」であろう。根室側の羅臼町を「裏知床」と呼んでいる人に会ったことがある。
「そーか!俺はウラの人間なんだ」と一瞬思った。ちょっと嬉しかったが。

それはともかく、「日本海」から受ける印象は、実態よりもはるかに寂しく哀れで切ない。
それは、津軽の弥三郎節、北陸の瞽女、深い雪に埋もれた集落、流刑地とされた佐渡、親不知海岸の断崖だったりする。

そして、「裏日本」である日本海沿岸は、「裏」として忘れられ、無視され、「表」の都合に振り回されてきた。
 それは戦争に刈り出される兵士の供給源だったり、「表」で不足している食糧の生産地だったり、労働者の供給源だったり、挙げ句の果てには原発を乱立させられ、「表」が必要とするエネルギーの供給地ともなっている。
「表」の繁栄は「裏」に犠牲を強いることによって維持されてきた。

 だが、日本海沿岸は、海を挟んでユーラシア大陸と向かい合う地域だ。先進的な文化や技術は、昔から、日本海を渡ってやって来た。
 日本海の向こうは、陸続きでヨーロッパまでつながっているのだ。日本海を介した文化交流には長い歴史がある。

 そして、北海道と本州との間の交流も「北前船」という日本海航路よって担われていた。北前船が、サハリンや千島列島を経由して北海道にもたらされた、大陸からの文物や技術を各地に運んだ。日本海は、優れた技術者、文化、情報の通り道でもあった。
 北前船の寄港地には、今でもそれらの痕跡が残っているという。

 だから、「日本海」という言葉には文化の香りを感じる。

 太平洋側が日本の中心になってから歴史はまだ浅い。中でもアメリカが日本のお手本か目標のように扱われ、多くの日本人がアメリカの方ばかりを向いてしまってから、日本海が顧みられる機会は減った。

 そんな日本海がたまらなく好きだ。どうしてなのかは、わからないが、惹かれる。
 これから時々、日本海へのノスタルジーを書いてみたい。

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