2011年5月7日土曜日

本日の放射線量

 台風1号発生(フィリピン東方海上)

 本日の放射線量0.11~0.19μSv
 いつもは0.08程度だからやや強い。
 瞬間的には0.21μSvも記録した。

 やはり雨のせいだろうか。 
この線量増加の原因は、東京電力の原子力発電所事故のためだろうか。それとも何もなくても降雨の時はこの程度の線量増加がみられるのだろうか。

 核兵器が世界中に配備され、原子力発電所がハリネズミのように林立する環境で生活させられていながら、こんな基礎的な知識さえ提供されていない。

 今は江戸時代か?と思ってしまう。
 知らしむべからず。寄らしむべし。というわけか。

 こんな国であるなら、いつまでも住んでいられない。
 「国民の安全」を言うなら、具体的な行動でそれを示してほしい。

2011年5月6日金曜日

環境のお話 二題

 きょうの「海洋生物」で次のような話題を取り上げた。
海の動物は陸上の動物に比べてより複雑な生態系の中で生きている。
 なぜなら海の中は陸上に比べて圧倒的に生物の種類が多い。つまり種の多様性にとんでいる。したがって食べる・食べられるの関係が陸上よりもずっと複雑で、生物同士が複雑に絡まり合っている。

 簡単に例えてみる。
 牛肉を食べる場合、「植物(牧草)→ウシ→ヒト」という図式が成り立つ。
 では、タラを食べる場合はどうか。
 「植物プランクトン→動物プランクトン→小型魚種(イワシ・コウナゴなど)→中型魚種→タラ→ヒト」となる。
 ウシなら三段階、タラなら六段階だ。

 環境中の汚染物質が、上位の消費者に行くに従って濃縮されていくことは、生物濃縮と言い、よく知られている。
 単純には比較できないが、海水中に満遍なく広がった有害物質が、上位者に行くほど濃くなっていくということだ。
 水俣病など水質汚濁に起因する公害はこうして発生した。私たちはそういう経験を持つ。

 放射能についても同じ事が言える。
 福島第一原子力発電所から40キロメートル離れた海底の泥から、通常の100倍から1000倍のセシウムなどが検出されたと報じられている。
 これが海の複雑な食物網で濃縮されると考えるのが普通だろう。

 東京電力の原子量発電所事故の影響は、これからジワジワと広がってくることになる。

これに関連して理屈っぽいお話をもう一つ:
 ここにコップ一杯の水がある。これを海水に混ぜ、まんべんなく混ざり合った場合、最初のコップに入っていた水の分子はどのくらい広がるだろう。 

放射能で汚染された水を海に流した時、原子力保安院のヒトが
 「汚染水は海の水と混ざり合って拡散するから何ら問題はありません」と言い切った言葉がまだ耳に残っている。

 地球上の全海水量は約140京トンあるのだそうだ。(ウィキペディアより)
 140京トンは1.4×10の24乗グラムになる。

 コップ一杯の水は180mlつまり180グラムとする。
 つまり10モルだから6×10の24乗個の分子がコップの入っていることになる。
 (アボガドロ数を6×10の23乗とする)

当然ながらその比は
地球上の全海水:コップ一杯の水=1.4×10の24乗(グラム):180(グラム)となる。

分子量を18とすれば
 地球全体の海水は、
  8×10の22乗モルであり、分子の個数に直すと4.8×10の46乗になる。

 仮に汚染されたコップ一杯の水を海に流し、海水と完全に混ざり合ったとする。その後、海水を同じコップですくい取る。その中に元の汚染された水の分子が何個含まれているかを計算する。
 コップに戻ってくる水分子の数をxであらわす。
比例式を建てて
全海水の分子の量:汚染された水の分子の量=4.8×10の46乗(個):x(個)

比例式を建てて
地球全体の海の水分子の量:コップ一杯の水分子の量
        = 汚染された水分子の量:コップに戻った汚染水の分子の量
4.8×10の46乗(個):6×10の24(個)=6×10の24乗(個):x(個)

計算すると
 x=750となる。
 つまりコップ一杯の水を海に混ぜ、完全に混ぜ合わせたと、再びコップですくうと、元の水分子が750個戻ってくる、ということだ。

 これは世界中どの海水にもこれだけの割合で、最初のコップ一杯の水分子が混じることを意味する。

 もちろん、これば水分子の話で、そこに混入している放射性物質の分子(または原子)の数はもっと少ないから、これをそのまま放射能汚染の広がりに当てはめるわけにはいかない。
 しかし、一度汚染された物質を環境に捨てると、その影響は思いのかほ広がるということなのである。

あの「ホアンイン」の担当者は、この程度の小学生並の比例式を理解した上でああいう発言をしたのだろうか?
 そうであってほしいのだが。
「ホアンインゼンインアホ」という回文が小学生の間で流行っていると聞いた。
まさか、と思いたい。

2011年5月5日木曜日

旅で得たもの

 今日は、羅臼の中学校の先生たちと羅臼湖へ行く計画を立てていたが、国道334号線の知床峠が積雪のため通行止めになり、登山口まで行けず、中止となった。
 きわめて残念。

 しかし、おかげでまとまった自由時間が手に入った。
そこで、「長旅」を終えたキャンピングトレーラー「アフローラ」の整備にじっくりと取り組むことができた。

 今までのキャンプは、ほとんどテント泊が主流だった。もちろんいつになってもそれが原点だと思っている。
 車で引っ張って移動する住居など贅沢の極みだ。
 「走るホテル」と言えば少々ほめ過ぎだが、まあそれに近いだろう。

 四泊して、その間のホテル代が浮く。
 さらに車中で調理すれば外食にかかる経費が浮く。テントのように設営や撤収に時間がからない。
 利用の仕方によっては、ありがたい存在である。

 もうひとつ、身に染みたことがあった。
 トレーラーの清水タンクやバッテリーの容量には限りがある。また、排水を溜めておくタンクの容量にも限度がある。
 顔を洗ったり、歯磨きをしたり、夜に室内を照明したりする時、水の量やバッテリーの残量を気にしながら使うようになっった。日常生活でも本当はそれが大切なことなのだ。

  水や電気を必要最小限にすることを常に考えていた。
 この感覚は、日常生活ではなかなか持つことができない。
自宅に戻って食器を洗う時、コーヒーを飲んだり選択をしたりする時に、自分が水や電気をいかに浪費しているかを改めて思い知った。

 そんな資源の無駄遣いにも気づかせてくれた、有意義なキャンプだったと思う。
 あればあるだけ何も考えもずに無駄遣いした挙げ句、まだ「足りない」と言い立てて、原子力発電にしがみつこうとする人々に、この旅行を体験してもらいたかった。  

2011年5月4日水曜日

旅の終わりに気づいた 錯覚の国



今日は旅の最終日。ひたすら帰路を進む予定だ。

 昨夜は上富良野町の深山峠パーキングで停泊した。
 駐車場の後ろ側に「トリックアート美術館」という施設がある。高さ数メートルの建物で、どう見ても一階しかないと思われるのだが、外壁に三階建てに見えるよう窓が立体的に描いてある。今まで、前を通り過ぎるばかりだった。
 午前9時開場ということだっし、以前から気になっていたので、出発前に中を見学することにした。

 中には、大小50点あまりの作品が展示されていた。ほとんどすべて錯覚によって立体的に感じるように描かれたものだった。
 平面に描かれているのに見る角度をが変わると手足のプロポーションが違って見える人物画、床に描かれているネコが立体的に見える絵などがあり、十分に楽しむことができた。

 その中の一枚に興味を感じた。
 円の中で二人の子どもが互いに反対向きで向かい合っている絵だ。これは、中国で子孫繁栄を象徴するおめでたい図柄だという説明が付いていた。

 この絵で、子どもは二人しか描かれていないのだが、垂直方向に(つまり左右に)向き合っているようにも、水平方向に(つまり上下に)向き合っているようにも見える。つまり4人見えるのだという。

 不思議な絵だ。

 人の脳は精巧に作られているがゆえに、錯覚を起こすものだ。
 この美術館の絵画は、すべて錯覚を利用したものだ。

 今まで自民党政府によって進められた原子力政策は、お金と人材をつぎ込んで、力尽くで国民に原発を押しつけてきた。
 その過程で、地元住民や自治体へは、多額の補助金を支払うことで反対意見を封じ、それ以外の国民へは、「電気が足りなければ日本はダメになる」とか「原子力発電は安全で、もっともコストがかからない」などとあの手この手で言いくるめてきた。
 要する国民全部に錯覚を起こさせてきたわけだ。
 その効果は絶大で、今でも
 「原子力発電はもっと進めるべき」と考えている世論調査結果もあるという。
     (その精度と真偽は定かではないが)
 多くの国民がいまだに錯覚だと気づいていないのも事実だ。

 笑って済ますことのできない錯覚からは、少しでも早く覚めなければならない。

2011年5月3日火曜日

あれば便利だけど無くてもなんとかなる物

昨夜は富良野市山部に停泊。東大演習林入り口のパーキングだ。

 今日は憲法記念日
 震災を口実に憲法改悪を企む者たちが蠢動し始めた。
 なりふり構わず、何でも改憲の口実に使おうという野蛮きわまりない策動は許せない。
 
 改憲の策動よりも地震・津波被災住民や原子力発電所事故の被災住民の生活の保障を憲法に基づいて速やかに行うのが先であろう。

 キャンピングトレーラー「アフローラ」を牽いての旅は、楽しい。
 スパルタンなキャンパーからは「そんなのキャンプじゃない」と軽蔑されるだろうが、宿泊地に着いてからテントを建てたりする必要がない。
 着いてすぐ眠っても良い。
 快適だ。

 今回の旅は、本格的に使うための実地試験の性格が強い。
 いくつかの課題も明らかになった。
 たとえばトレー-ラー側のバッテリー容量の低下という問題が起きた。
 いわゆる電源喪失だ(笑)
 電源が失われると灯りが点かなくなり、清水タンクからくみ上げるポンプが機能しなくなり「水道が出ない」という状態になる。
 しかし、予備のポリタンクが室内に持ち込んである。水は20リットル準備してあるから問題は無い。
 使い終わった食器などはティッシュペーパーで拭けば水は使わない。普段行っている普通のキャンプ生活だと思えば、水が十分になくても、灯りがつかなくても全く気にならない。
 そうなるとトレーラーの電源など無くても構わないのだ。
 このように「あれば便利だけど無くても平気だ」というものが身の回りにずいぶんあるもので、それに気づくことも旅やキャンプの効用かもしれない。

 停電を怖れる人たちは、はたして、生活上の備えをした上で、それでも怖れているだろうか。
 僕には停電より東電の方がはるかに恐ろしい。

2011年5月2日月曜日

鶏と原子力発電

 昨夜は十勝管内中札内で一泊した。
 道の駅で「停泊した。

 朝、「中札内地鶏の唐揚げ」というのを買ってみた。胸肉を大きなブロックに切り、カリッと香ばしく揚げられていた。味付けも薄味でとても美味しかった。
 5つの入って700円だった。1個140円。
味には満足したが、
 「ちょっと高いね」という感想が出た。

 そう口に出した途端にハタと気づいた。
 僕たちは、知らず知らずのうちに「安いこと=良いこと」という価値観が強烈に染みついてしまっているのではないだろうか。
 いつの間にか、「コスト意識」なる化け物に取り憑かれているのではなかろうか。

 ある一定の条件の下では安いことは、消費者として望ましい。

 しかし、なんでもかんでも
 「より安く、さらに安く」と血眼になっているうちに、素朴な手作りの唐揚げの味よりも、アメリカ発の「健太式鶏の唐揚げ」などの味に慣らされ、それが一番だと思い込むようになってしまったのではないだろうか。
本当は、狭いケージで大量に飼育され、管理優先のため、短期間で肥育できるように、調整された飼料を多量に給与されたニワトリを使い、調理にも添加物などが使われているかも知れないのだ。
 そうでなければ、あれほどの安い値段のフライドチキンはできないだろう。

 以前から言われていることだが、高くてもそれだけの値打ちのある物も世の中には少なくないのだ。

 そして、発電にもそのことは当てはまるのだ。
 原理力発電を普及させるために「原発は安い」という口実が使われていた。頻繁に使われていた。今も使われている。
 本当は、今回の東京電力の事故でわかるとおり、一度事故が起きると、見当もつかないほど高上がりなのだけれど、とにかくそう理由づけられていた。

 そして「安い」というのはそれなりの説得力を持つ。

 電力会社の言う通りに(随伴する間接的な経費や使用済みウラン処理のコストなどを無視して)本当にコストが安かったとしても、その安さと引き替えに失う物が大きすぎるのではないだろうか。農家の財産、水産業者の収入、そして子どもたちの健康、などなどなど。

 世の中には、コストだけで考えてはいけないものもあるのだと、中札内のアラアゲ屋さんのおばちゃんに教わった気がする
 

2011年5月1日日曜日

旅




 旅に出た。

 行く先も日程も決めず。

 もうずっと前からやってみたかったのだが、勤めのある身の悲しさで予定をきっちりと立てた旅しかできなかった。

 古いキャンピングトレーラーを牽いて、年季の入ったランドローバー ディフェンダーで、生きたい所へ行く。いつ帰るかも決めていない。

 生憎低気圧と前線に遭遇してしまったが、それは結果。自分をそれに合わせればよい。

 昨日は屈斜路湖半和琴半島で泊まった。
 今夜は中札内に来ている。外はかなり激しい雨だ。

 気ままな旅は楽しい。ロマの人々のような気持ちか。
 寒いキャビンで眠るのもそれなりに体力が要る。だがそれも楽しい。

 だがそれは、帰る場所があるからだ。
帰る当てのない人々には、どんなに残酷な仕打ちだろう。
 まして、高齢者や子どもたちなど体力や気力が衰えを見せている人々には、どんなに辛いことだろう。
 機械的に線引きし、「避難区域です」と宣告する側の人間にそれがどのくらい想像できているのだろう?
 まして、避難の原因を作った東京電力の人間、「原子力発電は安全です」と言い続けた者たちは、この事実を前にしてどんな態度をとるのだろう?

 あまりも、あまりにも想像力がなさ過ぎる。
 ああ、嘆かわしい。