2013年5月9日木曜日

長引く「イラクサの日々」

 北海道周辺の気圧配置は、このところほとんど変わることがなく、今日も強い北西よりの風が吹いて、気温の上がらない一日だった。  ジェット気流の蛇行に伴って、寒気が南下してきているのだとか。  五月中旬に入ろうという暦を考えればさすがにうんざりするような冷え込みではある。  しかし、ものは考えようで、この低温で植物の成長が足踏みしている。芽を出し始めたばかりのイラクサが、ちょうど食べ頃の状態でわが家の周辺に広がっている。どれほど採っても採りきることにはならない。低温が続けば、この食べ頃の芽吹きを長く楽しむことができる。  イラクサは、おひたし、きんぴら風、卵とじ、天ぷら、細かく刻んで汁の実にと、いろいろな食べ方ができる。お風呂に適量を入れて入浴剤にもなる。  おまけにタンパク質やミネラルが豊富で、アレルギーの緩和、利尿作用などの薬効もあるらしい。 まことに良いことずくめのハーブだ。 しかし、イラクサには棘があり、棘の基部にはアセチルコリンとヒスタミンを含んだ液体の入った袋を持ち、棘に触れその袋が破れて皮膚につくと強い痛みが起きる。そして、無数の小さな針が皮膚に突き刺さっているかのような不快感がしばらく続くのである。酷い場合には火ぶくれができることもある。  「イラクサ」という名もそれに由来しているのだろう。  だから、山野草の中で、とても意地悪なものに思えている。  そのせいか山菜ブームになっても一向に人気がでなかったのもイラクサだ。  やれギョウジャニンニクだ、タラの芽だと人気の山菜に人々は群がっているが、イラクサが注目されないことに少しだけホッとしている自分は、やっぱり意地悪だろうか。

2013年5月8日水曜日

強風の羅臼

 昨夜から吹き荒れた風は、今日になってもおさまらなかった。これほど悪天候が続くのも珍しいと羅臼に昔から住む人々が話していた。  羅臼には、過去にも想像を絶する強風が吹いて大きな被害を出したことがある。  羅臼町百年史によると風による災害の代表的なものに以下のようなものがあった。 ◎1954年(昭和29年)5月10日発生  最大風速50メートル、家屋の被害439戸、漁船被害87隻、人的被害 死者2名、 負傷者8名、行方不明者27名 ◎1959年(昭和34年)4月6日発生 最大風速45メートル、家屋の被害117戸、漁船被害49隻、人的被害 死者7名、負傷者4名、行方不明者82名  それぞれ「5・10災害」、「4・6突風」と呼ばれている。 完全に平坦な海上に1500メートルを超える山がニョキッと突きだしているのが知床半島だ。何者にも阻まれることなく進んできた風は、突然山にぶつかる。そこは尾根や谷が複雑に入り組んでいる場所だ。山を越えた風が、それまで以上に勢いよく吹き出してくることになる。  羅臼の突風はこうして生じる。 突風は災害をもたらすことも多いが、実は海面を泡立て酸素を溶かし込むことできれいな水を作りだし、水中で生物が住みやすい状態にする。その結果として魚も豊富になる。  強風は諸刃の剣なのである。

2013年5月7日火曜日

「社会復帰」の日々

 久々に出勤した。  当然なことで、やむを得ないことだが、様々の仕事が溜まっていた。郵便物や連絡書類、メールもそれなりのボリウムで待ち受けていた。  それらが錯綜し、少々多忙な一日だった。  少しずつ環境に馴化していかなければ。海外から帰ってくるといつもこうなのだ。    そして何より、羅臼町で行われているESDを質・量ともに高めていく必要がある。それには、先生たちの意識を今以上にESDに向けていくことが不可欠だ。そして、羅臼らしいESDを作っていかなければならない。  今回のプログラムでもっとも強く感じたのは、ESDにおける環境教育の重要性だ。言い換えればESDにおける環境教育の優位性とも言えるだろう。この点に関してはESD関係者の間でも必ずしも意見の一致を見ていない。  しかし、国際理解や平和教育、世界遺産教育などをどんなに推進しても、自然環境と人間との関わりの歴史とあり方への正しい理解がなければ、結局は人類の生きる環境を破滅に導いてしまうのではないだろうか。 今後考えねばならない課題が、あまりにも多く、「社会復帰」の過程でこれらを上手に整理していく必要がある。

2013年5月6日月曜日

「指差し、確認、喚呼」と人間性と安全運行

 一昨日、羽田空港への移動は京急線を使った。  先頭車の一番前の座席に腰掛けていると、若い男性の声で何かを叫んでいるのが聞こえてきた。  都会では、相手が目の前にいないのに、独りで何か呟いているような人がたまにいるので、最初のうちは気にならなかった。しかし、断続的に聞こえてくるその声が、いつまでも止まないので、耳をそばだてて言葉を聴き取ろうとしてみた。  すると、 「第一閉塞、進行」とか「大森海岸、場内進行」と言っている。運転室で運転士が信号を確認する声だった。  「なーんだ」と思うと同時に、ふとある疑問が浮かんだ。  多数の人の命を乗せて走る電車の安全を確保するためには、声を出して信号を確認するこの方式は、非常に効果的だとされている。その通りだろうと思う。しかし、自分以外の人間のいない密室で、機械を相手にして信号を指さし、大声で確認している運転士の姿は見ようによっては、人間ではなく「電車」という機械システムの一部に組み込まれた部品のような不気味さを感じさせるものでもある。  言うまでもなく大量輸送機関の使命の第一は、「安全」である。そのために運転士に声を出して確認するよう求めること、そう教育することは有効であろう。だが客室にまで聞こえるほどの大声を出す必要があるのだろうか。なんとなく、「当社の運転士は、このように声を出して信号を確認しておりますヨ。どうです?いかに安全な電車であるか、わかるでショ」と、会社から過剰にアピールされているように感じてしまうのだ。  つまり、本当に安全のためではなく、会社のイメージ演出の手段として無理強いされているように感じたのである。  おそらく社内の規定などによって、半ば強制的に声を出して確認することを迫られているのだろう。声の質が無機的で、人間らしさが伝わってこない。  それでも、鉄道という交通機関に、人間らしい温かさと柔軟さが欲しいと思うのだ。それは僕のノスタルジーに過ぎないのかも知れないけれど。  考えてみれば、現代の僕たちは、知らず知らずのうちに特定のシステムに組み込まれ、部品のように扱われて、自らの人間性を圧殺しながら毎日の仕事をこなしていないだろうか。  「指差、喚呼、確認」は、きわめて有効な安全のための動作だということは、理解している。ベテランの運転士は、皆実行していることだろう。それでもなお、この場合には、何とも言えない違和感を感じた。  その違和感は、人間性を失わせる方向でしか働かない「現代社会のシステム」の匂いをかぎ取ったために感じたに違いない。  いろいろなことを考えた、朝のひとときだった。

2013年5月5日日曜日

父との別れ

 米国からの帰国を待っていたかのように、3日午後8時に父が死んだ。  成田空港に到着し、全ての手続きを終えて出てきたのが午後2時過ぎ。その後、接続の飛行機が無く、その日は東京に宿泊することになっていた。予約してあったホテルにチェックインして一息ついていた夜の7時半過ぎに容態が危険な状態になったという連絡が入った。その後すぐに死亡したという連絡が来た。拍子抜けするようなあっけなさだった。  成田に着いてすぐに連絡があったなら、宿泊をキャンセルして駆けつけることができたかも知れないなどというのは結果論というものだろう。むしろ、僕の帰国する日まで待っていてくれたと考えるべきだと思った。  癌に冒され、最後は何も食べられなくなりながら、よく頑張ってくれたと思う。その結果、極端に軽くなった身体は、最終的には一抱えにも満たない骨に姿を変えた。  火葬直後の骨を入れた骨壺から胸に伝わってくる余熱が、父の体温であるかのような錯覚にとらわれつつ、92年間の人生が偲ばれた。もちろん子として理解できる範囲ではあるが。

2013年5月2日木曜日

5月2日(木)・・・帰国

 合同会議は10時過ぎに終わり、参加者は思い思いに街に散った。サンフランシスコの下調べはほとんどしていなかったし、特別な思い入れも無かったので、主催者側の企画したバスツアーに参加した。  まず、ゴールデンゲートブリッジに立ち寄って1937年に完成したという橋を間近でじっくりと見た。橋を吊っている塔の高さ200メートルを超える橋脚に支えられた吊り橋など、今でこそさほど珍しくはない。だが、1936年というごと昭和12年である。 塔の高さは水面から227メートル、塔と塔の間の長さ1280メートルで、全長は2737メートルある。  1930年代の建造物でありながら現在でも立派に通用していることを考えてみると、それがいかに優れているかがわかる。  橋を渡りきってみたかたったのだが、団体行動なのでそれを諦め、最初の橋脚まで歩いてみた。 短いブロック状に分割されて吊られているのだが、天候が良かったこともあり、特に揺れを感じることはなかった。面白かったのは中央分離帯が移動して、往復6車線の車線を交通量に応じて「4-2」や「3-3」などに変化させられるようになっているところだ。  次にロンバートストリートに行った。  この道は非常に傾斜の強い坂道で、一方通行で一車線の道を激しくつづら折れにしてある。少しでも傾斜を緩くして、自動車が安全に通行できるようにしてある。道の両側は一般の民家で、車道以外の部分を美しいアジサイを植え込んでいる。暮らしを楽しむ人々の思いが伝わってくるような道だった。  それからフィッシャーマンズワーフへ行った。  買い物をしたいという人が圧倒的に多かったので、ここで1時間の自由時間が与えられた。みな、買い物に突撃して行ったが、そういう興味のない僕は、そこにあった水族館に立ち寄った。  それほど有名な水族館でもないし、あまり期待せずに入ってみたが、まずまずの規模の水族館であり、サンフランシスコ湾の水環境について真面目に地道に展示されていた。  クラゲの展示が美しく幻想的に演出されていたほか、そのほかカタクチイワシの群泳、サメに触れるタッチプールなどがあって、一時間では全然満足がいかないほどの水族館であった。  その後、団体は解散して各自で自由行動することになったが、昨日の夜、一度乗ったケーブルカーにもう一度乗ってみた。昨日は夜だったが、昼間に乗るとケーブルカーの構造などがよくわかり面白かった。  ケーブルカーもずいぶん古いもので、1873年に開業したというから、日本の幕末には、もう営業していたわけである。車両はモーターなどがないので、あまり更新の必要もないのだろう。見るからに古そうなものばかりで、それがまた良い雰囲気を出していた。  ※明日、いよいよアメリカを出国する予定だ。これから荷物のパッキングなどをしなければならないので、写真の掲載は後日にすることにしました。

2013年5月1日水曜日

4月30日(火) 総領事館とダウンタウン

 日米共同で取り組むプロジェクトも決まり、会議に主要な部分は今日で終わった。  明日の会議の予定はほんの少し残っているが、実質的には今日で終了と言って良いだろう。  ホッとしたところで夜はサンフランシスコ日本総領事館で歓迎レセプションが行われた。  サンフランシスコに着いて3日目にして、初めてその市街地に行くことになった。  「坂の街」と呼ばれていることは知っていたが、実際に来て驚いた。海岸から少し離れるとすぐ坂道になる。その坂が、登っては降り、降りては登るのである。ちょっとした丘陵地帯をそのまま都市にしたという感じだ。いや、感じではなく、まさに丘陵が連続する場所に都市が置かれている。  しかも、古い歴史がある町だから、道幅は狭い。ソルトレイクの広々とした道とは対照的だ。  そして、元はメキシコ領だったこと、雑多な移民が集まっていること、などの理由で、建物のデザインや看板などから醸し出される雰囲気がワシントンDCとはまったく異なっている。今まで見たことのないタイプの町だ。  総領事館は、ちょうど尾根にあたる部分にあり、その前の道はどちらへ進んでも下り坂になる。  そのためそこからの眺めは素晴らしく、ゴールデンゲートブリッジやサンフランシスコ湾を一目で見渡せる位置にあった。  レセプションが終わってから地元の先生が街を案内して酒場に連れて行ってくれた。その時、ケーブルカーに初めて乗った。映画などによく出てくるケーブルカーだ。  驚いたのはその構造だ。道路上に敷かれた軌道の真ん中に牽引するためのケーブルが入る溝があり、ケーブルは常に動いている。車両は、車内のレバー操作によってケーブルをつかんだり離したりして速度を調節しながら走る。当然ブレーキも付いている。  無いのは、自力で走るためのモーターくらいだろう。  おそらく坂の多いこの街では普通の電車は使えないので考えられた乗り物だろう。所々に停留所があり、ポイントによる分岐もあるので複数の路線があると思われる。  普通に住民の足として利用されている。  珍しい貴重な体験ができた。