ドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」というのを観た。
先週、水曜日のことだ。
この映画は、中国電力上関原子力発電所建設に反対する祝島の人たちの闘いの記録だ。
地元の自然と産業に依拠した穏やかな生活を送ろうとする人々の粘り強い闘いの様子が記録されている。
その中のシーンで、発電所用地のために埋め立ての準備をしようとする中国電力側と、それを阻止しようとする人々が埋め立て予定海面で対峙し睨みあう場面があった。
そこで中国電力職員とおぼしき一人の男が、船の舳先に立ってハンドマイクを持ち、エラソーに次のようなことを言い放った。
「このまま、ここで農業や漁業を続けても先細りするだけでしょう。いつまでも一次産業にしがみついていたら、この島は衰退する一方です」
なんたる上から目線!
身体が震えるほどの憤りを感じた。
スクリーンに向かって叫びだそうとする自分を抑えるのに苦労したほどだ。
「オマエは米を食べないのか?
オマエは魚を食べないのか?
オマエは野菜を食べないのか?
工業で何でも出来ると信じているなら、たった今から農民や漁民の作った物を食べるな!
思い上がるのもタイガイにしろ!コノヤロー
悔しかったら電気で炭水化物を作ってみろ!
電気でアミノ酸を作ってみろ!
生物が光合成で作った物を食べる資格はオマエには無い!」
今でも思う。
本人に会って、思い切り言葉をぶつけてやりたい。
ああ、思い出しただけで腹が立ってきた。
2011年6月30日木曜日
2011年6月29日水曜日
ワラビとエネルギー
今年の5月頃だったろうか。
函館市から転勤してきた山の好きなN先生と二人で生徒を連れて外で授業をしていた。「野外活動」の授業だったと思う。
校地周辺の植物を観察しながら歩き回っているとタラの樹にちょうど食べ頃の芽が出ているのを見つけた。
おっ!と思って眺めているとN先生と目が合った。おもわず二人でにんまりした。
授業が終わっていそいそと採りに行った。一回食べる分量を採ってきて食べた。美味しかった。まだたくさん残っていたが、自分に必要なだけを採ることにしている。
少し遅れてN先生もやって来た。彼も一人分の量を採っていた。
もちろんタラの芽はまだ結構な量が残っていた。
ああ、この人も僕と同じく、自分に必要な分だけ採る人なんだなと思った。
わが家の入り口にワラビが生える。通りがかりの人が目ざとく見つけて採っていくことがある。
いくら自分の土地に生えているとは言っても、野生のワラビだから見つけた人が採っていって構わないと思う。
ただ、中には道路に沿って、目を皿のようにして路肩を探し、手当たり次第に取りまくって山のように持ち去る人がいる。
こういう人は、20kg入りの米袋に何袋もワラビを詰めて車のトランクに入れている。
タダの物は、取れるだけ取ってやろうという、むき出しの欲望を見せつけられているようで、良い気分になれない。
こういう思想は狩猟採集文化の民族には無いとよく言われる。
先住民の考え方の基底に、自然資源の持続可能な利用の方法を守る生活の知恵が息づいているという。
脱原発による電力不足を補うために自然エネルギー(あるいは「再生可能」エネルギー)の利用という方針を支持する人は多い。その考え方自体に反対するつもりはない。
だが待て、と思ってしまうのだ。
タダだから使えるだけ使いまくって良いはずはない。
「再生可能」というけれど、発電のための施設を建設してしまえばその場所は生物の生活の場としては再生できなくなってしまう。
十分に吟味し、慎重な選択が必要だろう。
「脱原発」を唱えるなら、効果的な「再生可能」エネルギーの開発と並行して、不必要なエネルギーは使わないようにするという慎ましやかな自制的な態度がどうしても必要だろう。
わが家の前のワラビを根こそぎ取り尽くすような気分で、エネルギーを浪費し「生産活動最優先」「儲け最優先」「経済成長がなければ死んでしまう」と信じている人々を追い詰めて減らしていくことが、これからは重要になってくると思う。
函館市から転勤してきた山の好きなN先生と二人で生徒を連れて外で授業をしていた。「野外活動」の授業だったと思う。
校地周辺の植物を観察しながら歩き回っているとタラの樹にちょうど食べ頃の芽が出ているのを見つけた。
おっ!と思って眺めているとN先生と目が合った。おもわず二人でにんまりした。
授業が終わっていそいそと採りに行った。一回食べる分量を採ってきて食べた。美味しかった。まだたくさん残っていたが、自分に必要なだけを採ることにしている。
少し遅れてN先生もやって来た。彼も一人分の量を採っていた。
もちろんタラの芽はまだ結構な量が残っていた。
ああ、この人も僕と同じく、自分に必要な分だけ採る人なんだなと思った。
わが家の入り口にワラビが生える。通りがかりの人が目ざとく見つけて採っていくことがある。
いくら自分の土地に生えているとは言っても、野生のワラビだから見つけた人が採っていって構わないと思う。
ただ、中には道路に沿って、目を皿のようにして路肩を探し、手当たり次第に取りまくって山のように持ち去る人がいる。
こういう人は、20kg入りの米袋に何袋もワラビを詰めて車のトランクに入れている。
タダの物は、取れるだけ取ってやろうという、むき出しの欲望を見せつけられているようで、良い気分になれない。
こういう思想は狩猟採集文化の民族には無いとよく言われる。
先住民の考え方の基底に、自然資源の持続可能な利用の方法を守る生活の知恵が息づいているという。
脱原発による電力不足を補うために自然エネルギー(あるいは「再生可能」エネルギー)の利用という方針を支持する人は多い。その考え方自体に反対するつもりはない。
だが待て、と思ってしまうのだ。
タダだから使えるだけ使いまくって良いはずはない。
「再生可能」というけれど、発電のための施設を建設してしまえばその場所は生物の生活の場としては再生できなくなってしまう。
十分に吟味し、慎重な選択が必要だろう。
「脱原発」を唱えるなら、効果的な「再生可能」エネルギーの開発と並行して、不必要なエネルギーは使わないようにするという慎ましやかな自制的な態度がどうしても必要だろう。
わが家の前のワラビを根こそぎ取り尽くすような気分で、エネルギーを浪費し「生産活動最優先」「儲け最優先」「経済成長がなければ死んでしまう」と信じている人々を追い詰めて減らしていくことが、これからは重要になってくると思う。
2011年6月28日火曜日
ガリレオよ! 今こそ起て!
授業の時、生徒に色々なことを質問する。
業界の用語で「発問」と言う。
現代の日本の生徒は中学生くらいになると、教師の発問に積極的に答えるのはダサイことだと思っている者が多い。知っていても知らぬ態度をとる。
授業に対して非協力的なのだ。こういう態度をとる生徒たちに対して授業をするのは、とても難しい。若い教師が自信を失っていく原因にもなっていると思う。
日本の授業を悪くしている原因の一つはここにあると思うのだが、そのことには今は触れない。
生徒のノリの悪い時には、あらかじめ選択肢をいくつか準備しておいて、全員に答えてもらう。たいていのクラスはここまですれば、選択肢のどれかを選んで挙手する。実にダルそうに手を挙げる時もあるが。
もちろん選択肢ごとの挙手の人数をかぞえ、黒板に書いて知らせる。
そんな時、口癖のように僕が発する言葉、
「科学の世界では、いつも多数が正しいとは限らない。ガリレオが地動説を唱えた時はたった一人だった。ダーウィンの進化論も多数からの反対や迫害、嘲笑にを乗り越えて広がったんだよ」
要するに、「個々人が自分自身の頭で考え、それぞれ自分の考えを持て」と言いたいのだ。
自然界に潜む真理は、自明のこととして大勢に認められるようになるまでは、少数の人だけがそれに気づいているという状態あることが多い。
科学者と言えども社会生活を送る人間であり、自分の名声や地位、収入に無関心ではいられない。
地位、名誉、収入に関心を持ち、その向上を図ると、目は眩ってくる。
はじめ無意識に、やがて意識し積極的に、真理から乖離(かいり)し始めることになる。
人間は弱い。自信の無さ、あるいは罪悪感から、同じような所行の学者が群れるようになる。群れることで弱い自信を補強し合い、罪悪感を薄める。
つまり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という構造ですね。
しかも、それによって、地位や名誉よ収入が補償されるのだから、真理などクソクラエという気持ちになっても不思議ではない。
カネと名誉と地位は電力会社と国がガッチリ補償してくれるのだから。
今こそ、ガリレオやダーウィンのような、たった一人でも真理に誠実な研究者に出てきてもらいたい。
歴史の裁きに耐えて胸を張れる研究者も決して少なくはないはずだ。そういう人々は積極的に発言すべきだと思う。
まさか、中高生のように 「わかっていても黙っている」なんて人はいないだろうと思うが。
業界の用語で「発問」と言う。
現代の日本の生徒は中学生くらいになると、教師の発問に積極的に答えるのはダサイことだと思っている者が多い。知っていても知らぬ態度をとる。
授業に対して非協力的なのだ。こういう態度をとる生徒たちに対して授業をするのは、とても難しい。若い教師が自信を失っていく原因にもなっていると思う。
日本の授業を悪くしている原因の一つはここにあると思うのだが、そのことには今は触れない。
生徒のノリの悪い時には、あらかじめ選択肢をいくつか準備しておいて、全員に答えてもらう。たいていのクラスはここまですれば、選択肢のどれかを選んで挙手する。実にダルそうに手を挙げる時もあるが。
もちろん選択肢ごとの挙手の人数をかぞえ、黒板に書いて知らせる。
そんな時、口癖のように僕が発する言葉、
「科学の世界では、いつも多数が正しいとは限らない。ガリレオが地動説を唱えた時はたった一人だった。ダーウィンの進化論も多数からの反対や迫害、嘲笑にを乗り越えて広がったんだよ」
要するに、「個々人が自分自身の頭で考え、それぞれ自分の考えを持て」と言いたいのだ。
自然界に潜む真理は、自明のこととして大勢に認められるようになるまでは、少数の人だけがそれに気づいているという状態あることが多い。
科学者と言えども社会生活を送る人間であり、自分の名声や地位、収入に無関心ではいられない。
地位、名誉、収入に関心を持ち、その向上を図ると、目は眩ってくる。
はじめ無意識に、やがて意識し積極的に、真理から乖離(かいり)し始めることになる。
人間は弱い。自信の無さ、あるいは罪悪感から、同じような所行の学者が群れるようになる。群れることで弱い自信を補強し合い、罪悪感を薄める。
つまり、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という構造ですね。
しかも、それによって、地位や名誉よ収入が補償されるのだから、真理などクソクラエという気持ちになっても不思議ではない。
カネと名誉と地位は電力会社と国がガッチリ補償してくれるのだから。
今こそ、ガリレオやダーウィンのような、たった一人でも真理に誠実な研究者に出てきてもらいたい。
歴史の裁きに耐えて胸を張れる研究者も決して少なくはないはずだ。そういう人々は積極的に発言すべきだと思う。
まさか、中高生のように 「わかっていても黙っている」なんて人はいないだろうと思うが。
2011年6月27日月曜日
言ってくれたね前原くん
6月26日の「日本経済新聞」の記事
民主党の前原誠司前外相は26日、神戸市内で講演し中部電力に対する浜岡原発停止の要請などを引き合いに、菅直人首相の「脱原発」に向けた動きをけん制した。「ポピュリズム政治(大衆迎合)政治をしてはいけない。一時的な国民受けをあてにするのは絶対に慎まなければいけない」と述べた。
その上で「急に『脱原発』となれば電気料金は跳ね上がり、極端な節電が必要になる。日本でものづくりはできなくなり、働く場所もなくなる」と強調した。
言うにこと欠いて脱原発を求める意見を「無知な大衆の一時的な気分」と断定したのだ。
脱原発を求める意見は、福島第一原子力発電所の事故を契機に急速に盛り上がった。だが、それは10万人もの人が避難し、日本の国土の半分近くが大騒動になっている具体的な根拠のあることで、「暗愚な大衆の妄想」ではない。
それを「ポピュリズム」と言ってしまう感覚の土台には、自分だけは常に正しいという鼻持ちならない傲慢さが根を張っている。民主主義国家とは相容れない思想の持ち主だ。 前原前外相は、松下整形塾いや違った松下政経塾に通い、政治を一部の人間の金儲けの手段くらいにしか考えない思想をたたき込まれたから、若い頃から政治屋になることばかりを考えてきたのだろうから、それもやむを得ないかもしれない。
「日本でものづくりはできなくなり、働く場所もなくなる」という断定も一面的だ。
海外から原材料と燃料を輸入し「ものづくり」をして輸出するという現在の経済のあり方そのもの検討するべきだろう。
爆発的な増加を続ける地球人口によって予想される食料価格の高騰などで、経済の構造が大きく変わることを彼は、考えられないのだろうか。
「ものづくり」の「もの」とは自動車や電化製品やダムやプラスチックや高速道路だけを意味しているのだろうか。
自分たちが食べる物や生活に必要な物を作り、自己完結的な物の流れを作っていくことで、持続可能な未来への展望が啓けるのではないだろうか。
彼は、人の苦しみや痛みがわかる人間性を発達させることなく生きているのであろう。 問題は、こんな低レベルの政治家が選出されていることだ。
選挙で前原さんに投票した人は、この発言をどう感じるだろう?
こういう政治家の名前を書いた用紙を投票箱に入れた人は、もう一度よく考えてほしい。
民主党の前原誠司前外相は26日、神戸市内で講演し中部電力に対する浜岡原発停止の要請などを引き合いに、菅直人首相の「脱原発」に向けた動きをけん制した。「ポピュリズム政治(大衆迎合)政治をしてはいけない。一時的な国民受けをあてにするのは絶対に慎まなければいけない」と述べた。
その上で「急に『脱原発』となれば電気料金は跳ね上がり、極端な節電が必要になる。日本でものづくりはできなくなり、働く場所もなくなる」と強調した。
言うにこと欠いて脱原発を求める意見を「無知な大衆の一時的な気分」と断定したのだ。
脱原発を求める意見は、福島第一原子力発電所の事故を契機に急速に盛り上がった。だが、それは10万人もの人が避難し、日本の国土の半分近くが大騒動になっている具体的な根拠のあることで、「暗愚な大衆の妄想」ではない。
それを「ポピュリズム」と言ってしまう感覚の土台には、自分だけは常に正しいという鼻持ちならない傲慢さが根を張っている。民主主義国家とは相容れない思想の持ち主だ。 前原前外相は、松下整形塾いや違った松下政経塾に通い、政治を一部の人間の金儲けの手段くらいにしか考えない思想をたたき込まれたから、若い頃から政治屋になることばかりを考えてきたのだろうから、それもやむを得ないかもしれない。
「日本でものづくりはできなくなり、働く場所もなくなる」という断定も一面的だ。
海外から原材料と燃料を輸入し「ものづくり」をして輸出するという現在の経済のあり方そのもの検討するべきだろう。
爆発的な増加を続ける地球人口によって予想される食料価格の高騰などで、経済の構造が大きく変わることを彼は、考えられないのだろうか。
「ものづくり」の「もの」とは自動車や電化製品やダムやプラスチックや高速道路だけを意味しているのだろうか。
自分たちが食べる物や生活に必要な物を作り、自己完結的な物の流れを作っていくことで、持続可能な未来への展望が啓けるのではないだろうか。
彼は、人の苦しみや痛みがわかる人間性を発達させることなく生きているのであろう。 問題は、こんな低レベルの政治家が選出されていることだ。
選挙で前原さんに投票した人は、この発言をどう感じるだろう?
こういう政治家の名前を書いた用紙を投票箱に入れた人は、もう一度よく考えてほしい。
2011年6月26日日曜日
28年ぶりのクラス会
昔、長万部高校で担任していた時の卒業生たちがクラス会を開いてくれた。
皆、47~48歳のオトーサン、オカーサンだ。クラスの半数が集まってくれた。
顔を合わせると瞬時に高校生に戻るもので、それぞれが家に帰れば立派な漁師の親方や職場の責任ある立場の人たちのはずだが、冗談を言い合って、はしゃいでいる。
まるで、いま教室から出てきたばかりのようだ。
彼らを担任した時、僕は、30歳そこそこだったから、僕自身も若やいだ気持ちになって楽しむことができた。
温泉に一泊し、朝、出発しようとしたら左後輪のタイヤがパンクしていた。見ると太い釘が刺さっていた。
ガソリンスタンドに勤めているA君と電気工事店に勤めているB君が手際よくスペアタイヤに換えてくれた。
二人とも朝風呂に入ってサッパリしているのに、手を真っ黒に汚して作業をしてくれた。
本当にありがたいことだ。
教育にたずさわっていると、こんな良い思いをすることもあるのだなあと実感した。
いま、教壇に立っている若い先生方に、この思いを伝えてみたいと思った。
皆、47~48歳のオトーサン、オカーサンだ。クラスの半数が集まってくれた。
顔を合わせると瞬時に高校生に戻るもので、それぞれが家に帰れば立派な漁師の親方や職場の責任ある立場の人たちのはずだが、冗談を言い合って、はしゃいでいる。
まるで、いま教室から出てきたばかりのようだ。
彼らを担任した時、僕は、30歳そこそこだったから、僕自身も若やいだ気持ちになって楽しむことができた。
温泉に一泊し、朝、出発しようとしたら左後輪のタイヤがパンクしていた。見ると太い釘が刺さっていた。
ガソリンスタンドに勤めているA君と電気工事店に勤めているB君が手際よくスペアタイヤに換えてくれた。
二人とも朝風呂に入ってサッパリしているのに、手を真っ黒に汚して作業をしてくれた。
本当にありがたいことだ。
教育にたずさわっていると、こんな良い思いをすることもあるのだなあと実感した。
いま、教壇に立っている若い先生方に、この思いを伝えてみたいと思った。
2011年6月24日金曜日
こんな生き方に誰がした
国内最大の放送局に勤めるあるカメラマンの話。
とある町で、上関原子力発電に反対する人たちの姿を描いたドキュメンタリー映画の上映会が計画されていた。
上映会成功を目指して熱心に活動する実行委員の話を聴き、取材して紹介してみるよう勧められた。
彼(彼女かも知れない)もその運動の重要さに気づき放送で取り上げることを考え、上司に相談する。
上司いわく、「それは偏った映画だから取り上げるわけにはいかない」
ここに二つの深刻な問題があると思う。
報道機関として、原子力発電に反対する市民が一定数存在し、その意見を広めるために上映会等を企画していることをニュースにすることはなんら「偏った」ことではない。
むしろ社会の木鐸として、弱い者、虐げられた者の側に立ち社会正義を貫くのがジャーナリズムの基本ではないのか。
その「上司」の姿勢は笑止である。
そして、それより問題なのは、「上司に止められたから」という理由で、アッサリ手を引いてしまうその本人である。
ジャーナリストとしての矜持は無いのか?
「上司」の顔色を覗うことを最重要視して人生を過ごす、情けない人間で一生を送るのか?
良心よりもやっとたどり着いた「本採用」が大切なのだろうか?
日本の社会はここまで来てしまったんだな、としみじみ感じた逸話である。
とある町で、上関原子力発電に反対する人たちの姿を描いたドキュメンタリー映画の上映会が計画されていた。
上映会成功を目指して熱心に活動する実行委員の話を聴き、取材して紹介してみるよう勧められた。
彼(彼女かも知れない)もその運動の重要さに気づき放送で取り上げることを考え、上司に相談する。
上司いわく、「それは偏った映画だから取り上げるわけにはいかない」
ここに二つの深刻な問題があると思う。
報道機関として、原子力発電に反対する市民が一定数存在し、その意見を広めるために上映会等を企画していることをニュースにすることはなんら「偏った」ことではない。
むしろ社会の木鐸として、弱い者、虐げられた者の側に立ち社会正義を貫くのがジャーナリズムの基本ではないのか。
その「上司」の姿勢は笑止である。
そして、それより問題なのは、「上司に止められたから」という理由で、アッサリ手を引いてしまうその本人である。
ジャーナリストとしての矜持は無いのか?
「上司」の顔色を覗うことを最重要視して人生を過ごす、情けない人間で一生を送るのか?
良心よりもやっとたどり着いた「本採用」が大切なのだろうか?
日本の社会はここまで来てしまったんだな、としみじみ感じた逸話である。
2011年6月23日木曜日
原発と鉄道唱歌
沖縄完全占領の日
「鉄道唱歌」をご存じだろう。
汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として
これが一番の歌詞だ。全部で374番まであるという。
歌詞にある通り、鉄道で旅客が乗るのは「汽車」なのだ。
いつの頃からか、多くの人が「デンシャ」と呼ぶようになった。
根室本線厚岸駅あたりで「次のデンシャは何時ですか?」と質問している人をみかけた。
けれど、鉄道を走る車両は汽車なのだ!
電車である場合もあるが気動車(ディーゼルカー)の時もあるし、最近はめっきり少なくなったが機関車に牽引された客車の時もある。
旅客は乗らないが貨車の場合もある。
ちなみに厚岸駅ではどれほど待っても、電車は来ない。根室本線は非電化区間だから。
鉄道の車両をあえて総称を探せば「列車」と呼ぶべきだろうか。
しかし、「列車」にも厳密な 定義がある。
すなわち列車とは、「停車場外の線路を運転させる目的で組成された車両をいう」(鉄道運転規則)なのである。
だから、正しくは
「次の列車は何時ですか」と尋ねるべきだ。
その固い言い方に抵抗があれば「汽車」と呼ぶのがいい。
どう間違っても「デンシャ」と呼ぶべきではない。電車は電化された区間しか走れない。根室本線は非電化区間なのだから。
だが、田舎の中高生は、「汽車」という表現に少なからぬ劣等感を感じているようだ。
あるいは、都会の人々の中には自分たちの使っている「電車」という単語に優越感を覚えているかも知れない。だから釧路や根室のような非電化区間に来てもやたらと「デンシャ」をひけらかすのではないだろうか。
だが、電車は、外から電気を供給されなければ一瞬でただの金属の箱(最近はアルミニウム製が多いからお弁当箱と同じですね)になってしまうシロモノだ。そしてその電力は赤字ローカル線切り捨てで、電車も通わぬような土地の発電所で作られているのだ。中には、近隣住民の生活を犠牲にする原子力発電で作られている!
現代の日本では、電車ばかりを極端に発達させ、200キロ、300キロという高速で突っ走らせている。
その方向が正しかったのだろうか?
「汽車」が、ゆっくりと、しかし力強くたくさんの人や物を運ぶのも悪いものではないなと考えるのだけれど、どうだろう。
まして、便利さ、快適さ、カッコ良さを鼻にかけているかのように、鉄道車両を見るとやたらに「デンシャ・デンシャ」を乱発するのは、少々軽薄じゃないのかなぁ?
今度、東京に行ったら山手線の駅で、駅員にきいてやろうかな。
「次の汽車は何時なの?」と。
「鉄道唱歌」をご存じだろう。
汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として
これが一番の歌詞だ。全部で374番まであるという。
歌詞にある通り、鉄道で旅客が乗るのは「汽車」なのだ。
いつの頃からか、多くの人が「デンシャ」と呼ぶようになった。
根室本線厚岸駅あたりで「次のデンシャは何時ですか?」と質問している人をみかけた。
けれど、鉄道を走る車両は汽車なのだ!
電車である場合もあるが気動車(ディーゼルカー)の時もあるし、最近はめっきり少なくなったが機関車に牽引された客車の時もある。
旅客は乗らないが貨車の場合もある。
ちなみに厚岸駅ではどれほど待っても、電車は来ない。根室本線は非電化区間だから。
鉄道の車両をあえて総称を探せば「列車」と呼ぶべきだろうか。
しかし、「列車」にも厳密な 定義がある。
すなわち列車とは、「停車場外の線路を運転させる目的で組成された車両をいう」(鉄道運転規則)なのである。
だから、正しくは
「次の列車は何時ですか」と尋ねるべきだ。
その固い言い方に抵抗があれば「汽車」と呼ぶのがいい。
どう間違っても「デンシャ」と呼ぶべきではない。電車は電化された区間しか走れない。根室本線は非電化区間なのだから。
だが、田舎の中高生は、「汽車」という表現に少なからぬ劣等感を感じているようだ。
あるいは、都会の人々の中には自分たちの使っている「電車」という単語に優越感を覚えているかも知れない。だから釧路や根室のような非電化区間に来てもやたらと「デンシャ」をひけらかすのではないだろうか。
だが、電車は、外から電気を供給されなければ一瞬でただの金属の箱(最近はアルミニウム製が多いからお弁当箱と同じですね)になってしまうシロモノだ。そしてその電力は赤字ローカル線切り捨てで、電車も通わぬような土地の発電所で作られているのだ。中には、近隣住民の生活を犠牲にする原子力発電で作られている!
現代の日本では、電車ばかりを極端に発達させ、200キロ、300キロという高速で突っ走らせている。
その方向が正しかったのだろうか?
「汽車」が、ゆっくりと、しかし力強くたくさんの人や物を運ぶのも悪いものではないなと考えるのだけれど、どうだろう。
まして、便利さ、快適さ、カッコ良さを鼻にかけているかのように、鉄道車両を見るとやたらに「デンシャ・デンシャ」を乱発するのは、少々軽薄じゃないのかなぁ?
今度、東京に行ったら山手線の駅で、駅員にきいてやろうかな。
「次の汽車は何時なの?」と。
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