2009年12月30日水曜日
12月26日(土) アロイーズ展を観に行く
道立旭川美術館で「アロイーズ展」と「北海道のアウトサイダー・アート」を観てきた。
アロイーズという画家は今回初めて知った。アロイーズ・コルバス1886年、スイス、ローザンヌ生まれ。明治18年生まれか。11歳の時に母親が過労で死亡し、母親代わりとなった長姉に育てられるが、恋愛が原因で25歳の時、この姉によってドイツのライプツィッヒに追いやられる。 その後、ローザンヌに帰ってくるが「統合失調症」と診断され、1918年、ローザンヌになるセリー大学付属精神病院に入院した。 病気は治癒することなく、1920年にスイスのジメルにあるラ・ロジェール精神病院に転院し、1964年に死亡するまで44年間をここで過ごした。この病院で、衣類のアイロンかけなどの作業をするかたわら絵を描くようになったという。 はじめのうち彼女の絵に関心を持つ人は少なかったが、次第に評判が高まり、多くの人に知られるようになっていく。
彼女の作品のは「その辺の紙」に無造作に描かれているように思われた。多くは紙の両面に描かれている。そのため展示は透明なアクリル板に挟んで、展示室の壁ではなく空間のあちこちに浮かぶように配置されていた。そのため、見る側が魚になって色とりどりの海藻の間を泳ぎ回っているように感じられ、個々の作品の良さは言うまでもないが、展示そのものが温かで心楽しい海底のような空間を形成していた。
病院でアイロンをかける作業に没頭するアロイーズの写真も展示されていたが、この小柄で不機嫌そうな表情のお婆さんと温かな色調の作品群を結びつけることは、正直に言って難しく感じられた。そこに彼女の心の深い闇が介在していることが暗示されていると思う。
人に見せるためではなく、表現せずにはいられない自らの内なる欲求に基づいて作品を作り、結果的にそれらの作品が高い芸術性をもっていること。特に芸術の伝統的な訓練を受けることなく、名声を目指すわけでもなく、流行や既成の流派にとらわれずに生み出された芸術作品をフランス語で「アール・ブリュ」と言うらしい。英語には「アウトサイダー・アート」と訳されている。
アロイーズ展と同時に開催されている「北海道のアウトサイダー・アート展」にも、印象的な作品が多数あった。
ふと、考えたのだけれど芸術は、本来こうやって生まれたのではないだろうか。 「現代の物差し」に当てはめると、「統合失調症」だったり「高機能自閉症」であったり「知的障害」だったりする人々も、原始社会、いや江戸時代などでも、芸術家や職人として人々の尊敬を集めていたのかも知れない。
たとえば、知的障害をもつ人達の描いた絵はがきやカレンダーを僕たちは、半分資金カンパのような気持ちで購入することがある。しかし、それら「障害をもつ」とされている人々の中には、ずば抜けて優れた才能をもっている人がいるかも知れない。僕らが「健常」で彼らが「要支援」だなどと断定するのは、傲慢な見方だろう。
大きな収穫を得た美術展であった。
アロイーズという画家は今回初めて知った。アロイーズ・コルバス1886年、スイス、ローザンヌ生まれ。明治18年生まれか。11歳の時に母親が過労で死亡し、母親代わりとなった長姉に育てられるが、恋愛が原因で25歳の時、この姉によってドイツのライプツィッヒに追いやられる。 その後、ローザンヌに帰ってくるが「統合失調症」と診断され、1918年、ローザンヌになるセリー大学付属精神病院に入院した。 病気は治癒することなく、1920年にスイスのジメルにあるラ・ロジェール精神病院に転院し、1964年に死亡するまで44年間をここで過ごした。この病院で、衣類のアイロンかけなどの作業をするかたわら絵を描くようになったという。 はじめのうち彼女の絵に関心を持つ人は少なかったが、次第に評判が高まり、多くの人に知られるようになっていく。
彼女の作品のは「その辺の紙」に無造作に描かれているように思われた。多くは紙の両面に描かれている。そのため展示は透明なアクリル板に挟んで、展示室の壁ではなく空間のあちこちに浮かぶように配置されていた。そのため、見る側が魚になって色とりどりの海藻の間を泳ぎ回っているように感じられ、個々の作品の良さは言うまでもないが、展示そのものが温かで心楽しい海底のような空間を形成していた。
病院でアイロンをかける作業に没頭するアロイーズの写真も展示されていたが、この小柄で不機嫌そうな表情のお婆さんと温かな色調の作品群を結びつけることは、正直に言って難しく感じられた。そこに彼女の心の深い闇が介在していることが暗示されていると思う。
人に見せるためではなく、表現せずにはいられない自らの内なる欲求に基づいて作品を作り、結果的にそれらの作品が高い芸術性をもっていること。特に芸術の伝統的な訓練を受けることなく、名声を目指すわけでもなく、流行や既成の流派にとらわれずに生み出された芸術作品をフランス語で「アール・ブリュ」と言うらしい。英語には「アウトサイダー・アート」と訳されている。
アロイーズ展と同時に開催されている「北海道のアウトサイダー・アート展」にも、印象的な作品が多数あった。
ふと、考えたのだけれど芸術は、本来こうやって生まれたのではないだろうか。 「現代の物差し」に当てはめると、「統合失調症」だったり「高機能自閉症」であったり「知的障害」だったりする人々も、原始社会、いや江戸時代などでも、芸術家や職人として人々の尊敬を集めていたのかも知れない。
たとえば、知的障害をもつ人達の描いた絵はがきやカレンダーを僕たちは、半分資金カンパのような気持ちで購入することがある。しかし、それら「障害をもつ」とされている人々の中には、ずば抜けて優れた才能をもっている人がいるかも知れない。僕らが「健常」で彼らが「要支援」だなどと断定するのは、傲慢な見方だろう。
大きな収穫を得た美術展であった。
12月23日(火)
第1回「知床学士」認定試験。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
12
第1回「知床学士」認定試験。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
町内の中高生47名が受験してくれた。1級に6名、3級に41名。
第1回の特例措置として、1級受験者で、基準点に達しない場合2級の合格と見なす場合もある、としたことから2級の受験者はいなかった。
3級の問題数が少なめで時間を持てあます生徒が多くいたが、全体としてはまずまず無事に終わることができた。
一安心。
2009年12月22日火曜日
12月21日(月) 知床学士検定
明日、斜里町での会議に出席するので、今日のうちに「知床検定」の問題印刷を終わらせた。
これで実施の準備はほぼ整ったことになる。
今回は47名の生徒が受検する。
第一回ということで、実施するこちらの方が妙に緊張するものだ。
12月20日(日)釧路
職場の忘年会で釧路に泊まった。 昨日とは打って変わって好天。 一時期に比べて、街が衰退していると言われているが、この街も師走にはまだまだ賑わいを見せている。 とは言っても、勢いが衰えていく街の独特の匂いが漂う。この「香り」実は好きなのだ。
2009年12月19日土曜日
JA共済の罪
自動車を持っている人で自動車保険(任意保険)に入っていない人はいないだろう。インターネットによる通販型の保険、外資系から農協や漁協の保険など、実に多様な損害保険がある。
実は、今年の9月13日に車をぶつけられた。9月5日に納車されたばかりの新車だ。まだ、一週間くらいしか乗っていなかった車で、駐車中に無理に割り込んだ車が、後ろのバンパーの部分に大きな凹みを作ってくれた。事故は仕方がない。こちらがいつ加害者の立場になるかわからないのだから、お互い様のようなものだ。
問題は相手の契約してた保険会社である。JA共済。盛んにコマーシャルも流している大手の保険だろう。ぶつけた相手と話をして、相手の加入している保険がJA共済である、と聞いて、安心感を覚えた。
ところがである。JA共済は、僕のそのような信頼感が全く根拠の無いものであったことを思い知らせてくれたのだ。
まず、現場で待たされた時間の長さだ。
事故が起きたのは釧路市内。日曜日の夜7時半頃だったろうか。相手の方はすぐに警察とJA共済に連絡してくれた。警察官は比較的すぐに来てくれた。一通り事情を調べ、双方から聞き取り、「事故を受け付けた」ということで帰って行った。それからいくら待ってもJA共済は来ない。かなり待たされて現れたのは警備会社の社員だった。聞けばJA共済の事故処理業務を代行しているのだそうだ。
その時点では、長時間待たされたことは、あまり気にならなかった。損傷した双方の車の写真を撮り、僕の連絡先などもメモして帰って行った。
僕がどうしても納得できないはその後のJA共済の対応である。翌日、僕の車の修理に関してすぐに連絡があるだろうと思って待った。だが、どんなに待っても何の連絡も無いのだ。その日は結局何の連絡も無かった。
JA共済という保険会社は、どうなっているのだろう。夜にまで待ったがなにも連絡がない。相手の方からは、あらためて丁寧な謝罪の連絡を頂いた。その際、相手方に対しJA共済の担当者からはきちんと連絡があったということを知って、愕然とした。契約者とはすぐに連絡をとるが、被害を与えた側は放置しておいているのだ。いたたまれない気持ちで中央の「相談室」という所に連絡してみた。それが夜の8時頃だろうか。
返ってきた答えは、
「現地の担当者(要するに地元の農協の職員であるが)は、勤務時間が過ぎたのでもう連絡がとれず、本日中の連絡は不可能」というものだった。
単なる物損事故だから被害者への連絡は急がなくても良い、と考えたのだろうか。そうに違いない。
その後、気の進まないような連絡が何度かあったが、真っ先に出てくる言葉は翌日、即座に連絡できなかった言い訳ばかりが先行して、誠意の感じられない態度に終始した。
JA共済というブランドへの信頼が、僕の中で失墜した出来事だった。
12月18日(金) 釧路の魔法の夜
「知床検定」の問題準備がほぼ整い、ゆとりある気持ちで釧路へ。
夜、「大航海」というスナックで少し飲んでからホテルへ。驚いたことには、飲み屋に入る前は雪など全く無かった釧路の町が、数時間お酒を飲んで店外に出た時には、一面雪に覆われていた。魔法のような夜だ。
「忙中閑あり」というところだろうか。比較的ゆっくりできた。
12月17日(木) それからのウルシかぶれ
漆カブレは大体快方に向かった。そんな時、授業でまたツタウルシの茂る森に入った。ちょっと心配だったけれど、「なに、負けるものか」という気持ちもあって、少しだけがんばった。
何でもなかった。よかった。
12月16日(水) 羅臼川調査
昼前の二時間、北見工大中山研究室の調査と羅臼高校の授業をリンクさせた、羅臼川水質調査のサンプリング。
かなり寒い日で、腰まで浸かった川の水が冷たかった。
それが終わるとすぐに羅臼中学で知床検定の講習。久しぶりに中学生を前にして「授業」を行った。話を進めるにつれて生徒たちがうちとけてくるのがよくわかり、楽しい授業だった。
その後、「知床学士検定」の試験問題作成作業部会。
今日は、今年最大の多忙な一日だったかも知れない。
2009年12月15日火曜日
「平和通りと名付けられた街を歩いて」 目取真俊
目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」を読んだ。彼の初期の作品だという。
沖縄を故郷とする人、沖縄戦で肉親を失ったり自らも心身を傷つけられた人にしかわからない感覚を鋭く突き付けられる作品だった。理解できないだろうが理解しろ、という矛盾きわまりない要求で迫ってくる力を感じた。
そしてアイヌ民族のことを連想した。現在も過去にも存在するアイヌ民族への差別や不利益について、僕は実感をもって想像することはできない。苦しい思いをしている人たちは、やはり、理解できないだろうが理解しろ、と迫ってくるのではないだろうか。
気候風土も歴史もまったく別々の沖縄と北海道だが、日本の中央政府から理由のない差別を受け続け、人権を侵害され、貧しさを押しつけられてきた。
実は、現在でも都市部で暮らしている人々の感覚で、僕らのような僻地の暮らしに大きな影響を与えるような法律や政策が決められ、生活上のいわれのない不便を押しつけられることが少なくないのだ。時には都会への憎しみのような感情を覚えることさえある。
憎しみをどのような形で訴えるか。この作品はそのことを問うていると思う。そして作者の目取真さんは、そこを原点として作家活動を始めたのだろう。
目取真さんは、平和通りから歩き始めたのかも知れないな、とぼんやり考えた。
2009年12月14日月曜日
冬型の気経つ配置
朝、冷え込み強まって知床は抜けるような青空。羅臼だけが純白の全容を見せて美しい。時間に追われ写真を撮っている時間がないのが悔しい。今週は冬型の気圧配置が強まるという。
「暖冬だ」と言われているが、引き締まるときには引き締まるのかもしれない。
2009年12月13日日曜日
捕獲技術講習2日目
朝、7時集合。朝食のお弁当を受け取って食べる。
昨夜のみぞれと雨が一晩のうちに凍り付き、林道の通行が危険になったとのこで、巻き狩りによるシカ猟は中止になってしまった。
あらかじめ捕獲してあったシカを利用して解体の実習だけをすることになった。場所は、シュンクシタカラ林道を少し入った砂防ダム近くの空き地だ。シュンクシタカラ川は阿寒川の支流だ。阿寒川自体それほど大きな川だという実感を持っていなかったので、その支流も小さな川だろうと考えていた。
ところが川そのものも案外大きく、その氾濫原というか河畔の平地が広々としてている。明るい良い沢であるように感じた。
今回初めて行ったのだが、まだまだ知らない場所はたくさんあるものだなあ、とつくづく感じた。
12月12日(土)
野生動物捕獲技術講習会のため阿寒公民館。
この12月で唯一予定のない土曜日曜だったのだが10日くらい前、急に決まった予定で少し気が重かった。ただ、狩猟に関して自分の技術を高めておくことは必要だし、猟友会の優秀な技能を持つ人達から直接教わる機会はなかなか得られないので参加を決めた。
午後1時から講義。
明日は実技講習ということで山へ入る。
2009年12月11日金曜日
昨夜から目の周りが・・・
昨夜から目の周に異常な痒みを覚えた。 あれ? これは・・・? やっぱり! ウルシにかぶれたらしい。ものすごく久しぶりだ。もう、ほとんどかぶれることはないだろうと思っていたし、しかも今までは春から初夏にかぶれていた。 秋から初冬にかぶれたのは初めての経験だ。 森に入ったとき、ツタウルシにやられたのかも知れない。 ちょっとショック! と言うわけで羅臼の病院へ行ってきた。 割に空いていたが診察、処置、薬局で1時間半くらいは、かかったか。 待合室でおばあさん同士が話していた。 「ワシねえ、刺身は夕食に食べないで朝に食べることにしてるの。 夕方食べて、夜、腹痛くなったら救急車で中標津まで運ばれることになるでしょう。 そんなのイヤだからね。」 笑えない話だが、なんだかホッとした。
12月10日(木)
今日は羅臼高校3校時環境保護の授業 午後は羅臼小学校で理科支援員の授業。 夜は、別海。 「検定」の問題ほぼ完成。 30人ほどの中高校生が「第一回知床学士認定試験」を受験する。 「学士」の資格を取ったからと言って、特別にどうということもないが、学習の励みになれば、と作られた制度だ。 来年2月には何人の「学士」が誕生するだろう。
2009年12月10日木曜日
2009年12月5日土曜日
塩ブタとジャガイモの雑穀入りスープ
2009年12月3日木曜日
待ち遠しい
今日の日の入り時刻15時43分。
明日から12月14日まで15時42分で、13日から再び43分になる。
一年で昼間の長さが最も短いのは冬至だが、日没が最も早いのは今頃から10日間あまりの期間なのである。なんだか、最も陰鬱な時期だ。
しかし、あと10日あまり経つと日没の時間は少しずつ遅くなっていく。冬至の到来も、一日の日照時間が回復しはじめる日としては待ち遠しい。しかし、夕方の日没がこれ以上早くならない、という日も待ち遠しい。
もうすぐ春が来る、という気になってくる。
2009年12月2日水曜日
国道244号線
朝、根北峠を超えて出勤。
通勤で峠を、それも知床半島の背骨の峠、しかも一部ではあるが凍結路面のある峠を越えるのは、なかなか辛いものでもあるが、同時にちょっと嬉しい。
朝日に輝く山々が美しかった。
思えば、この国道244号線に沿って生きてきた人生だった。
12月1日(火)
午後、中高一貫の講演。サーモン科学館学芸員Iさん。久しぶりでゆっくり話すことができた。
夕方、斜里で知床岬エゾシカ密度操作事業の反省会。早い話が岬におけるシカ撃ちの反省会だが、捕獲したしかの全ての個体の年齢査定を行った結果を教えてもらった。すると、特定の年の個体が極端に少ないなどエゾシカの繁殖状況の推移がはっきりわかって興味深かった。 様々な成果と問題点も浮き彫りになり有意義な会議だった。 斜里に泊まる。
夕方、斜里で知床岬エゾシカ密度操作事業の反省会。早い話が岬におけるシカ撃ちの反省会だが、捕獲したしかの全ての個体の年齢査定を行った結果を教えてもらった。すると、特定の年の個体が極端に少ないなどエゾシカの繁殖状況の推移がはっきりわかって興味深かった。 様々な成果と問題点も浮き彫りになり有意義な会議だった。 斜里に泊まる。
2009年12月1日火曜日
11月29日(日)
試験問題を作り、部屋の片付けをして一日が過ぎた。
なんとなく考えただけのことだが、いま、話題の「事業仕分け」で科学技術への予算もやり玉にあげられ、削減や見直しを迫られている。それに対してノーベル賞受賞者などが反論を展開していることが話題になっている。 それらの発言はいちいちもっともに思われる。予算の無駄遣いが良いわけはないけれど、科学技術の研究や開発には必要な無駄は多くあり、ソロバンづくでは判断できないことが多くあるのではないか。 この一連の「仕分け人」の発言や態度を見ていて不快に感じることがある。この不快感は、どこから来るのだろうと考えてみた。おそらく、「仕分け人」の傲慢な態度に対して不愉快を感じているのだという気がする。あまりにも独善的で、自分(たち)の考え方こそ世間を評価する基準だ、という根拠のない確信がギラギラと表れている。 謙虚さや多様性を認め合うココロの豊かさこそ、これからの地球に必要だと思うのだが、それらはみじんも感じられないからだ。
ふと思った。彼らの年代は、高校の「理科Ⅰ」の世代だ。物理、化学、生物、地学の4つの領域を十分に学習して来なかったのではないか。 さらに、「生物」では分類や生物地理学など基礎的自然理解に必要な学習が切り捨てられた教育課程で学習してしてきた世代が多い。 このような背景が、かれらのあの不愉快な態度の原因だ、と考えるのは飛躍だろうか。
午後から釧路へ。 明日はトド調査。
なんとなく考えただけのことだが、いま、話題の「事業仕分け」で科学技術への予算もやり玉にあげられ、削減や見直しを迫られている。それに対してノーベル賞受賞者などが反論を展開していることが話題になっている。 それらの発言はいちいちもっともに思われる。予算の無駄遣いが良いわけはないけれど、科学技術の研究や開発には必要な無駄は多くあり、ソロバンづくでは判断できないことが多くあるのではないか。 この一連の「仕分け人」の発言や態度を見ていて不快に感じることがある。この不快感は、どこから来るのだろうと考えてみた。おそらく、「仕分け人」の傲慢な態度に対して不愉快を感じているのだという気がする。あまりにも独善的で、自分(たち)の考え方こそ世間を評価する基準だ、という根拠のない確信がギラギラと表れている。 謙虚さや多様性を認め合うココロの豊かさこそ、これからの地球に必要だと思うのだが、それらはみじんも感じられないからだ。
ふと思った。彼らの年代は、高校の「理科Ⅰ」の世代だ。物理、化学、生物、地学の4つの領域を十分に学習して来なかったのではないか。 さらに、「生物」では分類や生物地理学など基礎的自然理解に必要な学習が切り捨てられた教育課程で学習してしてきた世代が多い。 このような背景が、かれらのあの不愉快な態度の原因だ、と考えるのは飛躍だろうか。
午後から釧路へ。 明日はトド調査。
2009年11月28日土曜日
2009年11月27日金曜日
2009年11月26日木曜日
11月25日(水)
暖かな一日だった。今週は、会議が多くあまり羅臼で仕事ができないが、授業もかねて高校の裏にクマが掘ろうとした穴を見に行った。
住宅や国道が見渡せる斜面に本当に冬眠穴を掘ろうとしたのだろうか。
住宅や国道が見渡せる斜面に本当に冬眠穴を掘ろうとしたのだろうか。
11月25日(水)
暖かな一日だった。今週は、会議が多くあまり羅臼で仕事ができないが、授業もかねて高校の裏にクマが掘ろうとした穴を見に行った。
住宅や国道が見渡せる斜面に本当に冬眠穴を掘ろうとしたのだろうか。
住宅や国道が見渡せる斜面に本当に冬眠穴を掘ろうとしたのだろうか。
シロキツネノサカズキ
2009年11月23日月曜日
サクラ
牧草地にサクラの古木が一本立っている。
今日、近くに行ってみると大きな枝が折れていた。
先月の大風で折れたのだろうか。
かなり傷んでいたから無理もないのだがなんとも惜しまれる。
毎年美しい花を楽しみにしているのだから。
残りの枝たちで、これからも末永く「我が家の庭」を飾ってもらいたい。
11月21日(土)
2009年11月21日土曜日
2009年11月19日木曜日
野外活動
2009年11月18日水曜日
北冥
寒気が流れ込んできているようで、雪がちらついた。積もるほどにはなっていないが、確実に少しずつ冬が近づいてくる。 例年に比べると冷え込みは厳しくないように思うが、実際のところはどうなのだろう? 二軒の家を管理している身にとっては、冷え込まないことは、ありがたい。
根室市のデータだが、今日の日の出は、6時14分、日没15時51分。 昼間の長さは、約9時間半だ。約40パーセント。これが冬至の日には8時間58分にまで縮まる。37.5パーセントだ。
北国で暮らしていると、初冬の短日が嫌になることがある。寒さは慣れれば快いほどだし、対策はいくらでもある。だが、この暗さだけはどうにもならない。北海道より高緯度の北欧やロシア、北極圏地方などでは、この時期に鬱病の発症や自殺者が増えたりする、という話も聞いたことがある。 この地は北緯44度だからそれほど高緯度というわけではない。中緯度地域と言うらしい。それでも、日長の変化をこれほど感じるのだから、北欧やロシアの人々の気持ちもわかるような気がする。
だが、それも考えようで、ほの暗さを楽しんだり、静かで落ち着いた雰囲気をジックリと味わうことができれば、何と言うこともないのではあるまいか。 そして、何より、太陽が甦ってくる冬至の喜びを強く感じ取れるだけ、この暗さはありがたいと思えてくる。
「北冥」という言葉ある。「北の大海」という意味らしい。
根室市のデータだが、今日の日の出は、6時14分、日没15時51分。 昼間の長さは、約9時間半だ。約40パーセント。これが冬至の日には8時間58分にまで縮まる。37.5パーセントだ。
北国で暮らしていると、初冬の短日が嫌になることがある。寒さは慣れれば快いほどだし、対策はいくらでもある。だが、この暗さだけはどうにもならない。北海道より高緯度の北欧やロシア、北極圏地方などでは、この時期に鬱病の発症や自殺者が増えたりする、という話も聞いたことがある。 この地は北緯44度だからそれほど高緯度というわけではない。中緯度地域と言うらしい。それでも、日長の変化をこれほど感じるのだから、北欧やロシアの人々の気持ちもわかるような気がする。
だが、それも考えようで、ほの暗さを楽しんだり、静かで落ち着いた雰囲気をジックリと味わうことができれば、何と言うこともないのではあるまいか。 そして、何より、太陽が甦ってくる冬至の喜びを強く感じ取れるだけ、この暗さはありがたいと思えてくる。
「北冥」という言葉ある。「北の大海」という意味らしい。
2009年11月17日火曜日
2009年11月16日月曜日
11月15日(日) 第21分科会
公害・環境と教育という名前の分科会だ。
この分科会はテーマ別分科会の中でも古い歴史がある。いわゆる高度成長期に日本中で噴出した公害問題を多くの人がとりあげ、公害を垂れ流す企業とそれを容認する行政の犯罪性をこの場で指摘してきた。
リゾート法が何よりも優先し、日本中にゴルフ場、スキー場、別荘地が作られていった時にはあちこちから反対運動の取り組みが報告された。
そして、今年は、昨年よりレポート数が増えた。目だったものはダム、外来種、つまりは川と山の問題。それと風力発電。
この分科会の司会を続けていて時代とともに問題は移り変わるが、自分だけが金儲けをしてやろうとタクラム人間の意志が、周囲に迷惑を垂れ流すという構造は変わっていないなあ、とつくづく感じる。このことを考えるとちょっと切ない気持ちになる。
さらに、それでもなお自由な競争が万能で、金儲けが善だという新自由主義者が蔭でほくそ笑んでいる図が想像されて、不愉快きわまりない気持ちになってしまう。
11月14日(土) 合同教研一日目
沖縄の作家目取真俊(めどるま しゅん)さんの「群蝶の木」(ぐんちょうのき)を読んだ。「短編」に入るのだろうが、心の中に比重の大きいカタマリが残った。
「群蝶の木」というのは、無数の蝶が群れ集まっているように花が咲くユウナの木のことである。
久しぶりに帰省した義明の目前に、「村のホームレス」のような暮らしをしているゴゼイというおばあさんが突然現れる。正常な認知力を失ったゴゼイが義明に「ショーセイ」と呼びかけたところから、従軍慰安婦ゴゼイと、徴兵を忌避した男・昭正との一瞬の愛の日々が、甦り、ゴゼイの生が、次第に明かされていく。
しかし、ゴゼイの生の真実は、誰にも語られることはない。 ゴゼイはずっと「日本兵ともアメリカとも寝れる、理解不可能な、廃屋で暮らす、村の異物であり、必要悪」として扱われ続けてきたのだ。
村の祭りで演じられる「沖縄女工哀史」の劇に出てくる琉球人への差別に村人は、怒り、涙を流すが、そこに乱入したゴゼイの生きてきた道に思いをいたす者は誰もいない。
日本軍の暴虐に泣き、飢えに苦しみ、砲弾の雨に打たれた住民にとって、敗戦は解放だったかもしれないが、ゴゼイにとっては、新たな苦しみの始まりに過ぎなかった。
ゴゼイは、目の前から消えた昭正との愛を確かめたユウナの木を自分の精神の中心に据え、その下で生きる。
「この作品はそれ自体が、戦争の記憶の表現であると同時に、戦争をめぐる表現に対しての批評となっている。結局ゴゼイの体験は、義明に継承されることはない。この、伝達されないということが伝達内容であるという点で、この作品はきわめて複雑な構造を持つと同時に、その分、読者の役割はきわめて大きくなっている。(大野隆之・『群蝶の木』書評より)」
ゴゼイは「我が哀り、お前達が分かるんな?」と問う。それは、大和人(ヤマトンチュ)である私たちへの問いかけでもある。 危険きわまりない米軍基地を放置させ、慰安婦はいなかった、日本軍の自決強要はなかったという強弁を許す、こんな世界の一員である、私たちへの問いかけに他ならないのではないか。 一方、リゾート地としての沖縄の明るい日差しの中で、徹底的に「なかったモノ・忘れたいモノ・存在しないモノ」として埒外に追いやられるゴゼイのような人々のことを誰も知らないし、歴史教育でも知らされることはない。 他者の苦しみに寄り添い、自分のことのように思いやる事の大切さを叫ぶ一方で、実際にはその真反対の事をやって見せているのが、現代のこの国の「指導者」たちなのではないだろうか。
昭正との濃密な日々、日本兵のおぞましさ、自分を慰安婦とさせている全世界への憎しみ、同胞であるはずの沖縄人への深い失望、怒り、村から排除され、村人の誰からも顧みられなかった孤独、寂しさ、それらをひっくるめた、言葉にならないゴゼイの思いと昭正との日々をよすがにして生きるしかなかったゴゼイの気持ちの深淵が、しこりのように心に残った。
と、感想を書いてまとめたのは土曜日の朝だった。
そして、その日、全道合同教研で、分科会の始める前のテーマ討論「世界の少数民族」に出席した。 そこではアイヌ民族が今でも激しい差別を受け、現代社会の辺縁に押しやられている現実、「人類学」の名のもとに墓を暴かれて持ち去られた骨が、世界中のあちこちに散らばっている事実を知った。そして、それらの骨が返還されて来た時、合同慰霊施設を作るという所までは良いのだが、それを観光施設としても活用しようという思惑もあることなど驚くべき事実を知らされた。 もちろん、自分の無知も知らされたのだが。
琉球、アイヌ、ウィルタ……重い重い研究会の幕開けだった。
「群蝶の木」というのは、無数の蝶が群れ集まっているように花が咲くユウナの木のことである。
久しぶりに帰省した義明の目前に、「村のホームレス」のような暮らしをしているゴゼイというおばあさんが突然現れる。正常な認知力を失ったゴゼイが義明に「ショーセイ」と呼びかけたところから、従軍慰安婦ゴゼイと、徴兵を忌避した男・昭正との一瞬の愛の日々が、甦り、ゴゼイの生が、次第に明かされていく。
しかし、ゴゼイの生の真実は、誰にも語られることはない。 ゴゼイはずっと「日本兵ともアメリカとも寝れる、理解不可能な、廃屋で暮らす、村の異物であり、必要悪」として扱われ続けてきたのだ。
村の祭りで演じられる「沖縄女工哀史」の劇に出てくる琉球人への差別に村人は、怒り、涙を流すが、そこに乱入したゴゼイの生きてきた道に思いをいたす者は誰もいない。
日本軍の暴虐に泣き、飢えに苦しみ、砲弾の雨に打たれた住民にとって、敗戦は解放だったかもしれないが、ゴゼイにとっては、新たな苦しみの始まりに過ぎなかった。
ゴゼイは、目の前から消えた昭正との愛を確かめたユウナの木を自分の精神の中心に据え、その下で生きる。
「この作品はそれ自体が、戦争の記憶の表現であると同時に、戦争をめぐる表現に対しての批評となっている。結局ゴゼイの体験は、義明に継承されることはない。この、伝達されないということが伝達内容であるという点で、この作品はきわめて複雑な構造を持つと同時に、その分、読者の役割はきわめて大きくなっている。(大野隆之・『群蝶の木』書評より)」
ゴゼイは「我が哀り、お前達が分かるんな?」と問う。それは、大和人(ヤマトンチュ)である私たちへの問いかけでもある。 危険きわまりない米軍基地を放置させ、慰安婦はいなかった、日本軍の自決強要はなかったという強弁を許す、こんな世界の一員である、私たちへの問いかけに他ならないのではないか。 一方、リゾート地としての沖縄の明るい日差しの中で、徹底的に「なかったモノ・忘れたいモノ・存在しないモノ」として埒外に追いやられるゴゼイのような人々のことを誰も知らないし、歴史教育でも知らされることはない。 他者の苦しみに寄り添い、自分のことのように思いやる事の大切さを叫ぶ一方で、実際にはその真反対の事をやって見せているのが、現代のこの国の「指導者」たちなのではないだろうか。
昭正との濃密な日々、日本兵のおぞましさ、自分を慰安婦とさせている全世界への憎しみ、同胞であるはずの沖縄人への深い失望、怒り、村から排除され、村人の誰からも顧みられなかった孤独、寂しさ、それらをひっくるめた、言葉にならないゴゼイの思いと昭正との日々をよすがにして生きるしかなかったゴゼイの気持ちの深淵が、しこりのように心に残った。
と、感想を書いてまとめたのは土曜日の朝だった。
そして、その日、全道合同教研で、分科会の始める前のテーマ討論「世界の少数民族」に出席した。 そこではアイヌ民族が今でも激しい差別を受け、現代社会の辺縁に押しやられている現実、「人類学」の名のもとに墓を暴かれて持ち去られた骨が、世界中のあちこちに散らばっている事実を知った。そして、それらの骨が返還されて来た時、合同慰霊施設を作るという所までは良いのだが、それを観光施設としても活用しようという思惑もあることなど驚くべき事実を知らされた。 もちろん、自分の無知も知らされたのだが。
琉球、アイヌ、ウィルタ……重い重い研究会の幕開けだった。
2009年11月13日金曜日
2009年全道合同教研
明日から合同教研。「世界遺産の現場から」の報告も5回目を数える。
今回は、前後の日程が詰まっていて、今日、仕事を終えてからの出発。月曜日、普通通りに出勤できるよに日曜日のよる帰宅、という強行軍だ。直前までクルマで行くか汽車にするか迷った。今日の朝までは、ほぼクルマで行く方向に傾いていたが、国道の峠の情報を聞いているうちに考えが変わってきた。 雪道を走ることは何でもないのだが、夏に比べてどうしても速度が落ちる。日程に余裕があれば速度の落ちることは問題ない。だが、ギリギリの時間で走っていると影響が大きい。例えば、今日の夜、予約したホテルにはチェックイン23時30分と伝えてある。夏の道なら余裕をもって間に合うのだが雪道ではどれほど遅れが出るか予想がつかないのだ。到着が遅れることは構わないが、それだけ睡眠時間が圧縮されてしまう。明日の研究会にも影響するし。
というわけで札幌行きの最終の特急にとび乗った。指定席をとることもできなかったから自由席にいる。週末のためだろうか、思いの外混雑している。それでも帯広で降りる乗客が多く、帯広以降はゆったりと座ることができた。
そして、目取真俊さんの「群蝶の木」をゆっくりと、一気に読むことができた。不思議な読後感に包まれながら札幌に近づいている。この本の印象は、もう少しまとめてから後日。
今回は、前後の日程が詰まっていて、今日、仕事を終えてからの出発。月曜日、普通通りに出勤できるよに日曜日のよる帰宅、という強行軍だ。直前までクルマで行くか汽車にするか迷った。今日の朝までは、ほぼクルマで行く方向に傾いていたが、国道の峠の情報を聞いているうちに考えが変わってきた。 雪道を走ることは何でもないのだが、夏に比べてどうしても速度が落ちる。日程に余裕があれば速度の落ちることは問題ない。だが、ギリギリの時間で走っていると影響が大きい。例えば、今日の夜、予約したホテルにはチェックイン23時30分と伝えてある。夏の道なら余裕をもって間に合うのだが雪道ではどれほど遅れが出るか予想がつかないのだ。到着が遅れることは構わないが、それだけ睡眠時間が圧縮されてしまう。明日の研究会にも影響するし。
というわけで札幌行きの最終の特急にとび乗った。指定席をとることもできなかったから自由席にいる。週末のためだろうか、思いの外混雑している。それでも帯広で降りる乗客が多く、帯広以降はゆったりと座ることができた。
そして、目取真俊さんの「群蝶の木」をゆっくりと、一気に読むことができた。不思議な読後感に包まれながら札幌に近づいている。この本の印象は、もう少しまとめてから後日。
2009年11月12日木曜日
バイオの黙示録
アマゾンからのDMで諸星大二郎の「バイオの黙示録」というマンガの存在を知った。(「劇画」と書かないと叱られるだろうか?)ふだん、あまりマンガを読まない方だが、興味をもったので買ってしまった。
「バイオの黙示録」は、DNA操作が進んだ未来世界の話。遺伝子操作で「優秀で有用な」農作物が効率的にどんどん生産されるようになってきた反面、人間の顔をして言葉を発するがその言葉に全く意味が込められていない鶏とか、魚とヒトの遺伝子が混ざり合って生まれた人魚、人間の姿をした雑草などの短い物語をオムニバス風にまとめられた内容である。
一見荒唐無稽のように感じるが、実は現代の科学技術の持つ問題点を鋭く指摘していることに気づかされる。遺伝子操作は遺伝性の疾患の治療には効果的だし、そのための実験研究を止めるべきものではないと思うが、農産物の生産などへの適用は慎重であるべきだと思うのだ。
実験室と生産現場では条件が違いすぎるからだ。最新の「技術」が災厄をもたらした最も典型的な例はセイヨウオオマルハナバチによる環境汚染だ。ニンゲンは、いつまでたっても、過去の多くの事例から教訓を学ぼうとせず、目先の利益が上がりさえすれば、なりふり構わず新しい技術に飛びついてきた。今もそれは変わっていないのだ。
そして、その結果、取り返しのつかない災いを世界に広げ続けたのがこの2~300年だ。これは、今もなお懲りることなく、続いている。競争原理の信奉者、新自由主義者たちは、今も得々として「金儲けは善」と公言してはばからない。
その結果、生物を取り巻く状況は諸星氏が描いて警告する方向に進まないとも限らない。
DNAを細胞に植え付けるためには一種のウイルスを使う。もちろんインフルエンザのウイルスとは異なるものだ。だが、考えてみると、インフルエンザに感染するということは、一時的であるにせよ自分以外のDNAで汚染されることに他ならないのである。
こう考えると、インフルエンザの流行も、ゾッとする現象に思えてくる。
2009年11月11日水曜日
眠る羅臼
昨日、森重久弥氏が亡くなったという報道があった。「知床旅情」の作者としても知られている名優だろう。
朝、オホーツク老人の銅像を眺めに行ってきた。
今日の羅臼。
無風の谷に、雪が音もなく降り続けていた。
樹木も岩も、川までもが耳を澄ましているような日だった。
2009年11月10日火曜日
キソキホン・キソキホン
教育関係の集まりが二つあった。 「基礎・基本を重視した指導」 「基礎・基本を身につけさせる」などなど 「基礎・基本」という言葉があふれかえっていた。 どうも耳についてしょうがない。 「基礎」と「基本」はどう違うのだろう? 「学力」なら「基礎学力」というのが普通だ。 ウインドーズは「基本ソフト」だ。 「基本学力」とか「基礎ソフト」とは言わない。「基礎体温」であって「基本体温」じゃないよなあ。 教育基本法はあるけど教育基礎法は無いよなあ。ブツブツ。 教育の基本とは、知、徳、体の人間形成の全般を指すワケだし、基礎とは土台のことだし…。 考えてみて少し得したような気分になった。 それにしても、「基礎基本」を振り回している人たちは、本当に意味を理解してから振り回しているのだろうな。 納得できない言葉は、あまり振り回したくないな。
2009年11月9日月曜日
イカとドン・キホーテ
イカを二ハイ買ってきた。一枚は刺身で食べた。もう一枚は冷凍。足は天ぷらにしてげそ天丼で食べた。
動物性タンパク、実に安い。植物を食べなければ。
「あなたが『ラ・マンチャの男』のラストシーン、アロンソ・キハーナが死に際にドンキホーテに戻るシーンで感動し、涙を流すのは何故だろう?」文系で非常に頭の切れるある人から質問された。うーん、と考え込む。そして、しどろもどろに答えた。
「現実の辛い世界で生きることから解放され、自分の理想の中に生きることができるようになったドン・キホーテやドルシネアの思いが伝わってきたからかなあ」
すると、さらに切り込まれた。
「現実よりも妄想の世界で生きる方が幸せなの?」
「うーん。そんなことは無いよなあ」
僕がこの話に惹かれるのは、劇中に登場する作者セルバンテスの
「現実とは、理想を閉じ込めておくための檻だ」という台詞に共感したからだ。
昔、高校生の頃、両親はじめ大人たちに
「現実をよく見なさい。どんなに理想を言っても、現実に適応していかなけば生きていけない」とうるさく言われ続けたことへの反発だろうか。
大人は勝手だ。このようなことを言う同じ口で
「夢を持ち続けることが大切だ」などとも言っているのだ。
要するに、若者が大人たちが許容できる範囲内で「夢」を語っているうちはそれで良く、自分たちの「安全基準」から少しでも逸脱したことを言い出すと、「現実が大切だ」と圧殺にかかるのだ。
普天間の海兵隊の海外移転を求める県民大会が開かれた。
「海外移転」を言い出すと、決まってしたり顔で「現実の国防問題が…」と言い出す人たちがいる。ここでもまた、自分の青年時代を思い出す。
やはり、僕は高校生の頃と同じ言葉を繰り返すべきだと思う。
「アメリカは沖縄から日本から出て行け」
11月8日(日) 「アイヌの美」展
日曜日に予定されていた羅臼町内の小学生向けの行事がインフルエンザ流行のため中止となった。思いがけなく時間ができたので、帯広まで足を延ばした。北海道帯広美術館で開かれていた「アイヌの美展~カムイと創造する世界~」を観ようと思ったのだ。「ロシアのサンクトペテルブルグにあるロシア民族学博物館が所蔵するアイヌ民俗資料から約215点を紹介します。これらの作品は、1912年から13年にかけて、平取やサハリンで集められたものです。 会場は、生活文化をたどる「まかなう」、衣装に焦点をあてた「まとう」、祭礼儀式を紹介する「いのる」の三つのコーナーで構成。古くから北海道の地に暮らしつづけてきたアイヌの人々。その独自の文化と美の諸相を紹介します。」(パンフレットの紹介文を引用)
午前中、ゆっくりしてから出発したので、帯広に着いたのは午後2時半頃だった。 それでも、美術館の主展示場と百年記念館の「描かれたアイヌの世界」(幕末から明治にかけて、アイヌ民族の生活の様子を画家(絵師)たちが描いた作品)の両方をじっくり観ることができた。
実際に使われていた食器や装身具、生活の道具などを眺めているとそれらのものが自分の来し方を語り続けているように感じられる。そして、それは、明らかに現代日本のルーツとは異なるひとつの大きな文化圏の存在を示している。そして、異文化同士の接触が決して友好的なあるいは幸福なものでなかっただろうことを容易に想像させる。
多くの示唆をうけた展示であった。
11日が最終日というこの展示会は、是非行きたいと思いつつも日程の都合上、行くのは無理だ、と諦めていただけに思い切って行って良かった。
午前中、ゆっくりしてから出発したので、帯広に着いたのは午後2時半頃だった。 それでも、美術館の主展示場と百年記念館の「描かれたアイヌの世界」(幕末から明治にかけて、アイヌ民族の生活の様子を画家(絵師)たちが描いた作品)の両方をじっくり観ることができた。
実際に使われていた食器や装身具、生活の道具などを眺めているとそれらのものが自分の来し方を語り続けているように感じられる。そして、それは、明らかに現代日本のルーツとは異なるひとつの大きな文化圏の存在を示している。そして、異文化同士の接触が決して友好的なあるいは幸福なものでなかっただろうことを容易に想像させる。
多くの示唆をうけた展示であった。
11日が最終日というこの展示会は、是非行きたいと思いつつも日程の都合上、行くのは無理だ、と諦めていただけに思い切って行って良かった。
2009年11月7日土曜日
2009年11月6日金曜日
集まるときには集まるものだ
2009年10月30日金曜日
オリオン座の季節なのだ
オリオン座がよく見えるようになった。
冬だ。10日くらい前、オリオン座流星群が話題になっていて、僕も風邪をひいてはいたが、早起きしてオリオン座の方向をじっと見つめたりした。
しかし、残念ながら、ハッキリとした流れ星を見ることは出来なかった。
だが、オリオン座について、先日「星の学校」で詳しく教えてもらう機会があった。オリオン座には、一等星が二つもありその他にも明るい星が多いのだけれど、オリオンの腰のベルトにあたる三つ星が有名だ。あの三つ星は右端からミンタカ、アルニラム、アルニタクという名前があるということを知った。
さらにアルファ星の一等星ベテルギウスの右にあるのがベラトリックス、右下のベータ星の一等星リゲルの左にあるのがサイフという名であることも最近知った。
「名もない星」なんて無いのだろうな。
2009年10月29日木曜日
「物忌み」の理由
新しいモノにすぐ飛びつくことは嫌いだった。「流行」というものには背を向けて生きていることが誇りでもあった。それなのに・・・
新型にすぐ飛びついてしまった。いや、飛びつかれてしまったと言うべきだろう。相手はウイルスだから。
罹ってみて実感したことがいくつかある。このウイルス、実に手強い。やはり「新型」だけあって、僕が地球上で長い生活で身につけてた免疫機構が全く役立たなかった。気がついてみるとウイルスとそれに随伴するバクテリアに、襲われるままになっていた自分がいた。
そして今、気管支あたりの呼吸器症状がまだ少し残っている。呼吸器というのは、消化器や筋肉、関節と違ってダメージが実感しにくいが、全般的な体力の低下として現れるものであるなあ、などと実感している。
ともあれ、いろいろと学ぶことの多かったウイルスとの闘いでありました。
2009年10月14日水曜日
2009年10月9日金曜日
台風と断食
台風18号は、一晩中強い風を吹かせ、家を揺らし続けた。朝、根室海峡も波がすごかった。標津では国道に霧がかかったように波しぶきが立ちこめていた。それでも、この地方では大きな被害が出ていないことは何よりも喜ばしい。
7日夜、8時頃から何も食べていない。48時間が経過した。朝はコーヒーを飲んでいる。どこまで耐えられるか、まだ普段と変わらない。水分は十分摂っているから、よく言われるように一週間くらいは問題ないのかも知れない。
それだけ身体に「蓄え」が十分にあるということなのだろう。もっとも現代の生活は、豊かで食べものも身の回りにあふれている。いつでもどんな食べものでも入手可能だ。そんなココロの余裕が、あまり飢餓感を覚えさせないのかも知れない。
2009年10月8日木曜日
2009年10月6日火曜日
マガン飛び去る
朝、羅臼川河口を見下ろせる部屋に住んでいる友人から連絡があった。マガンがいなくなっている、と。昨日の夕方は河川敷で草を食べていたから,夜のうちか早朝に飛び去ったのだろう。
マガンの繁殖地はカムチャツカ半島が有名だ。 全くの想像だがカムチャツカから千島列島沿いに飛んできた。知床半島にたどり着いた時、疲れて羅臼川河口に降りた。2泊して河川敷に生えた牧草を食べ、体力が回復したので飛び立った。一緒に渡ってきた群れは、ウトナイ湖か美唄の宮島沼あたりに留まっているに違いない。 もう、今頃は家族に合流していることだろう。
マガンの繁殖地はカムチャツカ半島が有名だ。 全くの想像だがカムチャツカから千島列島沿いに飛んできた。知床半島にたどり着いた時、疲れて羅臼川河口に降りた。2泊して河川敷に生えた牧草を食べ、体力が回復したので飛び立った。一緒に渡ってきた群れは、ウトナイ湖か美唄の宮島沼あたりに留まっているに違いない。 もう、今頃は家族に合流していることだろう。
2009年10月5日月曜日
マガン続報
2009年10月4日日曜日
羅臼に不時着したマガン
羅臼川河口近くに一羽のマガンが降りていた。左岸の河川敷でさかんに草を食べていた。カラスが寄ってきてちょっかいを出していた。まったく、カラスという鳥は余計なことをする。うっとうしい鳥である。
「三千世界のカラスを殺し、あたしゃも少し朝寝がしたい」と歌われているが、同感である。
「三千世界のカラスを殺し、マガンにゆっくり食べさせてやりたい」
ガンの仲間は海岸線や川の流れに沿って飛ぶことが多い。シベリアから日本に渡ってきたマガンの群れから一羽だけ離れて、河口に「不時着」したのだろう。群れから離れざるを得ないほど腹が空いていたのだろうか。一羽の仲間を見捨てて、飛び去るほど先を急いでいる群れだったのだろうか。朝からいたということだから、夜間飛行をしていた群れなのだろう。一羽が脱落したことに気づかなかったかも知れないが。
試しに保護しようかと近づいてみたが、アッサリと飛びたって右岸に移動した。だが、草の豊富な左岸にすぐ戻ってきた。引き続き見守って、必要があれば保護しなければならないだろう。とりあえず関係者に連絡することだけをしておいた。
2009年10月3日土曜日
大雨と川
昨夜は激しい雨が降った。別海の自宅に戻っていたのだが、羅臼では100ミリを超える雨量であったらしい。
今日の午前、羅臼に来てみたが、川の水量はすでにかなり減り始めていた。雨が降ると急激に増水し、止むとすぐに水量が元に戻るというのは、山が豊かでなくなっていることを示している。知床の河川は特別かも知れないけれども、「豊かな自然」というのは、本当はそのような懐の深さをもった自然なのかも知れない。
2009年10月2日金曜日
ダンゴウオのいる海
前線の通過によって夕方から雨が強まった。
ビジターセンターで「羅臼自然講座」が開かれた。
題して「ダンゴウオのいる海」
ダイバー、水中写真家の知床ダイビング企画主宰者・関勝則さんが羅臼の海の中を写したたくさんの写真を紹介しながら羅臼の海、知床の素晴らしさを、彼の人柄そのものの飾らない語り口で説明してくれた。
そして、とても控えめな表現ではあったが、この二十年間の海中の変化が、将来への不安を感じさせるものであることを具体的に説明してくれた。地球全体を覆う環境悪化の波が羅臼にも押し寄せていることが感じ取られた。
関さんのHPは以下の通り。
http://www.aurens.or.jp/~sdiving/
デルス・ウザーラ

10月1日(木)
昨日に続き、晴天。バイクで無事に帰宅。
羅臼に泊まると、時間に余裕ができていろいろなことができて良い。
「環境保護」で生徒たちに「デルス・ウザーラ」を観せた。その、感想文になかなか素晴らしいものがあった。自分だけが読むのはもったいないので紹介したい。
デルスは自然の中で生まれ、生きてきた。アルセーニェフ達と出会った事でこの物語が始まった。アルセーニェフ達はデルスがいたことによってさまざまな危機から助かった。デルスがいなければ探検は失敗していた。しかし、逆にデルス側から見れば、会わなければデルスはあのような最期を迎えずに済んだのではないかと思う。
身体の衰えを感じたとしても、虎を撃ってしまったとしても、あのまま残っていれば、デルスは本来の生き方をしたまま死ねたのではないか、デルスは死ぬ直前、鳥たちを幸せそうに話していたという。デルスにとって自然はアルセーニェフが思っていた以上の存在だったのだろう。
私たちが思う自然とデルスが思う自然は見方が全く違うだろう。今の世の中の生活をデルスが見たとしたら「悪いこと」だらけだろう。そして私たちも「悪い人」だろう。
(男子)
○
私は、こういう類の映画を見るの初めてでしたがとても楽しめました。
特にデルスの考え方や価値観は現代人にはとても足りないものだと感じ共感できました。「自然を大切に」とよく言われていますが、みんな自然の上に立ってものを考えていて、デルスのように同じ立場で考えている人は少ないでしょう。これは現代人だからこそ見なくてはいけない映画だと思います。
一つ残念なのは、ハバロフスクに行ったデルスが街のルールを分かろうとしなかったことです。デルスは森に行った人達に森でやってはいけないことなどを熱心に教えていました。しかし、同じ立場に立ってその場のルールを理解しようと努力するシーンがあればよかったと思いました。 (男子)
○
最初は、古くさくて、変な映画だなぁと思って見ていました。
デルスなんて、ただ山で生きているだけで、ちょっと人より勘が良いだけなんだろうと考えていました。けれど見ていく中で、デルスの普通の人とは違う考え方や視点のおき方が変だとかおかしいという考え方から、デルスみたいな考え方や視野の広さがとてもうらやましく思えてきました。デルスは、人の中で最も優れた能力の持ち主の一人なんだろうと思いました。自分一人が良ければそれで良い、と言う自己中心的な考えではなく、自分が助かった、ならば、他のヒトも助けなければ、大切にしなければならないと言うデルスの考え方が私には想像できました。
デルスを見ていて、今自分に足りない想いやりの心がデルスには備わっていると気がつきました。この映画を通して、自分の視野が少し広がった気がしました。
また、自然と共存していくための考え方、行動も学べたんだろうと思います。(女子)
○
この映画の最初の感想はおもしろかったと思いました。
そして、デルスの能力がとにかくすごいと感じました。足跡だけで人を見分けるなど普通の人にはわかるはずのない事をデルスは普通にできてしまう。デルスのような考え方(動物も物も「ヒト」と呼ぶ)を持つ人が増えていくことで、世界のあり方などは今とはガラリと変わるかも知れないと思いました。
そして最後にデルスが殺されたときに思った事は、自然の過酷な環境より怖いのは人の欲望の方だ、ということです。
やっぱり、世の中人が一番怖いのかなあ、と思った。 (男子)
○
この映画は、途中から見たので、最初はよくわからなかったけれど、ロシアの厳しい冬を目のあたりにして少し驚いた。まず、自然のスケールからして自分のいる場所からはなかなか考えにくい部分があった。
デルスの生き方には学ぶ所がたくさんあった。日常生活ではなかなか難しいことばかりだけれど、人間として、見習う所ばかりだった。
昨日も言ったように、やっぱり一番は地上にある全てのモノに対して「人」と平等に、それ以上に敬っていることにはビックリしたし、すごいなと思った。
日本にも色々なモノに神がやどっているという考え方はあるけど、実際にそう思って過ごせている人はそう居ないと思う。きっとそういう自然の中に直で生きているから、そんな所まで考えて実行できるんだろうな思った。今の自分たちが住んでいる場所では厳しいかなと思う。
でも、そんなこと関係なしに、みんな平等とか、周りを敬うことは重要なので、もっと考えて過ごせたらいいなと思った。 (女子)
2009年9月30日水曜日
二輪車
等圧線ようなカーブを一気に走り抜けると輪郭のくっきりとした雲が目に入る。ゆっくりゆっくりスロットルを開けていくと、高気圧の縁から等圧線の接線方向に加速する。エンジンの音が囁くように高まっていき、次のコーナーが迫ってくる。
天候が安定していなかったこと、荷物の多い日が続いたことなどなどの理由で、今年はバイクに乗る機会がいつもより少なかったように思う。久しぶりにバイクを走らせて羅臼に来た。そして、ウトロで知床財団の会議があったので峠をウトロまで往復した。ブランクがあったためか、あまり納得できる走りができていないように感じた。年齢のせい、とは考えたくないし・・・。
明日も天気が良いようだ。
2009年9月29日火曜日
帰路の月
月と木星が並んでいる。
どちらも黄道を通る星だから、約一ヶ月に一度黄道を一周する月は、約一ヶ月に一度惑星の近くを通るわけだから約一ヶ月に一度惑星の近くに見えるのは当たり前のことだ。それでも、星と月がすぐ近くに並んでいるのを見るとなんだかワクワクするのはどうしてだろう。
ともかく、根室海峡の上の木星と月は、帰路を楽しませてくれた。
2009年9月28日月曜日
その貝の名は・・・
キリギシ山
9月27日(日)
崕(キリギシ)山(1066m) が見たくなって、富良野を通って帰ってきた。
それほど高い山ではないが、周囲の土を削り落とされた石灰岩がノコギリの歯のように切り立っていて、独特の山容をもっている。
石灰岩の土壌だから塩基性が強く、固有種や高山植物が豊富に見られ、爆発的に登山者が押しかけた。また、自家用車で簡単にアプローチできることから大規模な盗掘が行われた歴史を持つ。
いわば、自然への畏敬の念などハコベの花粉ほども持ち合わせていない者たちによって、好き勝手に蹂躙された悲しい歴史をもつ山である。
何百年も何千年もニンゲンによって荒らされることの無かったこの山は、わずか十数年の間に全く別種のような無知で強欲なニンゲンの手でボロボロにされたのだ。
いまは、良心的な地元の人々の手で辛くも守られているが、かつてのような自然が回復するまで、いったいどれほどの時がかかるのだろう。もしも知床半島が、この山のように大都市に近い「便利な」位置にあったとしたら、やはりガサツで利己的な欲にまみれたニンゲンたちの手でズタズタにされていたに違いない。
では、崕(キリギシ)山は、知床に反映されているのか?
とても反映されているとは思えない。山は何も言わないが、何も言わないがゆえに訴えかけている。崕(キリギシ)山の声に僕たちは、もっと耳を傾けるべきではないだろうか。
2009年9月26日土曜日
満ち足りている
久しぶりに札幌に出てきて、街を歩いてみた。
家電製品店、書店などを歩き回った。
気の付いたこと。ほとんど買うモノが無い。いま、持っているモノで、僕の生活は十二分に快適だ。
たしかに
「ああ、あれがあるといいなあ」と感じるモノもある。
が、そう感じた途端、即座に
「やっぱり無くてもなんとかなるな」という思いが続いて出てくる。
いまの自分は満たされているのだとモノの氾濫する街を歩きながら実感した。
買ったモノ:
本 数冊。
写真プリント用紙。
デザイン用の切り文字。
カヤッカーが集まった
第四回知床シーカヤックシンポジウムが開催されていた。いや、いる。
「北の海の先人たち~知床の海を漕ぎ、地球環境を考える~」というテーマである。
蝦夷地の先住民たちが、外洋を航海できるカヤックを使って北方や大陸とどのように交易を行ってきたか、カヤックという道具がどのようにして作られたか、現代のカヤック乗り(カヤッカー)に求められる課題は何かなどについて大勢の人々が集まって話し合われた。
その中で、南富良野のインディアンカヌークラフトの松原さんが制作した長さ9メートルもある三人乗りの艇がひときわ目をひいた。木のフレームにキャンバスを張った作りだけれど、荒い波にも強く積載能力も高い艇だ。そして、何より美しい。
彼は、この艇で稚内・利尻・礼文を航行した、という話をしてくれた。そしてそれは、単なる冒険ではなく、昔の人々が生命の危険を可能な限り低くしつつ、生きるのに必要な食料を獲得するための道具として工夫されてきたカヤックの伝統を一人一人のカヤッカーが自覚し、伝承していくことの重要さを強調していた。
まったく同感だ。
2009年9月24日木曜日
羅臼の海岸線
久々に出勤。五日間も休みが続くと普段のリズムに復帰するのに努力が要る。
「野外活動」という科目で、生徒をビーチコーミングに連れて行った。しかし、何度来ても羅臼の海岸は面白みがない。石の浜だから、という理由からではない。護岸のせいなのだ。万里の長城のようにコンクリートの護岸が延々と続いている。波打ち際には、大きな石が重なり合っている。知床半島先端部の海岸と違って、これらの大石は何百年もかかって自然に形成されたものではない。コンクリートの護岸の建設に伴って、元あった場所から動かされてきたものだ。したがって不安定で「浮いた」状態のものが多い。だから岬近くの海岸よりはるかに歩き難いのだ。同じ大石の海岸でも半島先端部の浜の方が、それなりの安定性を獲得している。市街地の海岸に比べると歩きやすい。
こんな海岸線を見ていると、羅臼の人は自然に対してきちんと向き合っているのか、という疑問が湧いてくる。自然環境の豊かな場所で暮らしていると自然環境の価値を正統に評価できなくなるかも知れない。先人たちが、生活の向上を求め続けて、ついつい行き過ぎてしまう、という例は、よくあることなのかも知れない。
全国のダム建設を見直すという方針に政策が転換されようとしているとき、メンツや利害関係から建設推進にしがみついている人たちも、自分たちの生活の「向上」を求めるあまり建設推進にこだわると、日本中がコンクリートと鉄で固められてしまうのかも知れない。
2009年9月23日水曜日
マッコウ子
2009年9月22日火曜日
アルビレオ
ALBIREOに目立たぬようにロゴを貼った。
先日も書いたけれど「アルビレオ」とは、白鳥座の頭の星の名である。白鳥座は、目立つ6つの星がほぼ等間隔に十字架の形に並んでいる。宮澤賢治先生は「銀河鉄道の夜」の中で、北十字星と呼んでいる。これは一般的な呼称であるらしい。ハクチョウの尾(つまり十字架の頭)の部分にあるのが一等星のデネブだがアルビレオはちょうどその反対側、ハクチョウの伸びたくちばしにある星だ。白鳥座のベータ星であるが、実際には白鳥座で五番目に明るい星なのだそうだ。星座を作っている星は、明るさの順に「アルファ」とか「ベータ」とかいうギリシア語のアルファベットで呼ばれることになっているが、この場合、命名の時に誤りがあったのだろうか。
そして、アルビレオを天体望遠鏡で見ると金色の星(アルビレオA 見かけの明るさ3.1等)と青い星(アルビレオB 見かけの明るさ5.1等)の二つからなる連星系であることは有名だ。二つの星は6千億キロも離れているが、共通重心を持ち、約10万年の周期で公転しているのだそうだ。最近の研究では、もう一つ小さな星がそばにあり、三十連星系であることがわかった、とのことだけど。
ガソリンエンジンとモーターと二つの動力を持つクルマを買った時、この名前がいいなあと思った。
こんなクルマに乗っているとどうしても燃料消費量を意識してしまう。おまけにモニターの中央にデンと「燃費計」なるものが付いているの、ますます意識してしまう。燃料消費量の少ないクルマに乗っているからと言って、「地球温暖化防止に貢献している」と胸を張る気持ちはさらさらない。むしろ周囲から「やっぱりあなたもエコですネエ」などと言われたり見られたりするのはイヤだ。
ケッと思う。
「現在の生活水準を落とすことなく地球環境を守っていこう」などというのは、問題の深刻さを直視しない、根拠無き楽観主義だ。現代の環境問題は、我々に「何を捨て最低限何を残すか」という選択を迫っているのでははいだろうか。だから、ブームやムードだけで「エコがって」いるだけでは何も解決しない。もっと地道な、もっと効果的な、もっと着実な成果のあがる方策を講じていかなければならない、深刻な問題なのだ。
だから、僕が燃費を気にするのは、純粋にお財布の中身の問題である、というワケだ。
旅……2日目
9月21日(月)
釧路に立ち寄る用があったので美瑛、富良野、狩勝峠、帯広を超えて釧路へ。
連休中日で道路はものすごく混雑していたが、不思議にゆっくり走ってしまう。
天気も今日一日晴天を維持できそうな気配で、気持ちの良い旅となった。
2009年9月19日土曜日
道普請
我が家まで国道から150メートルほど私道がある。私道だから誰も補修してくれない。道路の維持管理はすべて僕の責任(と言うほど何もしてないのだけれども)で行う。と言っても重機もなく、材料もないので少しずつ傷んでくる。この家に住んで20年近くになるので、積もりに積もっていつの間にかデコボコになってしまった。道路を通るたびに気になっていたが、なかなか修理のための時間がとれなかった。おまけに我が家の車はすべて悪路に強い四輪駆動だったので道の悪さも、正直あまり気にしていなかった。
ところが、今月から「ごく当たり前の乗用車」がやって来た。「ガラにもない」とか「全然似合ってない」という批評が集中している。確かに自分でもそう感じる。まったく似合っていない。しかし、バッハの無伴奏フルートソナタやラフマニノフのピアノ協奏曲を聴きながらゆったりと走るのには、実に良い車だ。長距離の移動が増えた今の状況を考えると、この車は存在価値を持つと言えよう。それに、悪路や吹雪をモノともしない力強い四駆この先も永く活躍してもらうためにも。
新しい乗用車は「ALBIREO(アルビレオ)」と名付けた。ハクチョウ座の 星。白鳥のくちばしにあたる星だ。二つの星からなる二重星である。
そして、今日、そのために道を少し修理したというわけである。
2009年9月18日金曜日
最近のこと
政治の季節なのだろうか。
政権交代とか改革だとか、騒々しい。すべて嘘くさい。
僕は、政治家を選ぶ選挙民に対して不信感を持つ。
「勝ち馬に乗る」という人々が少なくないらしい。だが、選挙は競馬ではない。自分の投票した候補者が落選すると自分の票が無駄になる、という考え方に対して、どうしても共感できない。共感できないだけでなく憎しみさえ覚える。
愚かだ。人は自分の信念に基づいて行動すべきだし、そうすることが崇高なことだ、と教えられてきたはずだ。それをかなぐり捨てて皆が支持する方に付く、多数におもねる、という態度は没主体的でみっともない価値観だ。ファシズムはそういう民衆を好むものだ。 その意味で、この国の国民は第二次世界大戦の教訓を全く生かしていない。醜い。このような状況では、まだしばらくは僕たちの生活はよくなりそうもない、と思う。
2009年9月17日木曜日
街角で
病院へ行くために休暇をもらって釧路に来た。一日ゆっくりと本屋をのぞいたりして歩き回った。
考えてみるとこれほどゆっくりしたのは久しぶりだ。自分のためだけに時間を使っていると、なんだか後ろめたい気持ちになる。これは、日常、自分以外のために時間を使っている割合が多いということの証明だろう。忙しさに流されてふとわれに返ってみて自覚できることだ。
「そうやって他人から当てにされていることは大切で良いことなのだヨ」と誰かが言っていた。それはそうだろうが、ものには限度というものがある。平安時代なら「物忌み」などと称して「誰にも会わない日」を自由に作り出すことができた(と想像しているのだけれど)ろうが、現代ではそんな生き方は通用しない。
声が出なくなった音楽の教師、リストカットを繰り返す体育の教師、朝、起きられない英語の教師、いつも熱が下がらない化学の教師、慢性的に風邪をひき咳をしている社会科の教師etc. etc. etc、みな実在の例がある。破廉恥な行為に走る者は論外だとして、どう考えても学校現場は病んでいると言えるだろう。そして生徒たちも…。
本屋の店頭に「日本の子どもたちはなぜ自尊感情が低いか」という本が平積みになっていて、それを立ち読みしていてふと頭に浮かんだことを書きとめてみただけであるが。
2009年9月16日水曜日
サンマの炊き込み寿司
2009年9月15日火曜日
地引き網
登録:
投稿 (Atom)